日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

野井成正

インテリアデザイナー

 

インタビュー:2025年9月22日 10:00〜12:00
取材方法:オンライン
取材先:川上比奈子教授(摂南大学理工学部住環境デザイン学科)、
松本直也さん(インテリアデザイナー)
インタビュアー:浦川愛亜
ライティング:浦川愛亜

PROFILE

プロフィール

野井成正 のい しげまさ

インテリアデザイナー

1944年 大阪府生まれ
1960年 大阪府立西野田工業高校工業デザイン科入学
1965年 展示会やウィンドウディスプレイなどの仕事に携わる
1967年 インテルナ・カガヤ入社
1973年 インテリアデザインオフィスNob入社
1974年 ジーベック設立
1982年 野井成正デザイン事務所設立
1984年 バー「酒肆上野」ナショップ・ライティングコンテスト銀賞受賞
1986年 レストラン「トフィーズ・イン」旭硝子ショップデザインコンテスト銀賞受賞
1990年 インセンスショップ「リスン北山店」ナショップ・ライティングコンテスト大賞
    受賞
1993年 バー「川名」日本商環境設計家協会大賞受賞
1995年 イタリアの雑誌『INTERNI(インテルニ)』掲載
1997年 イタリアの雑誌『domus(ドムス)』掲載
1998年 インセンスショップ「リスン北山店2」日本商環境設計家協会優秀賞受賞
2000年 大阪万博記念公園内「迎賓館」大改装のマスタープラン、
    同施設内チャペル「風詩の教会」の建築インテリアデザイン
2003年 ミラノサローネ「和空(WA-QU)展」に参加し、「雪」(屏風)を発表
2022年 逝去

 

野井成正
Photo by takeshi asano

Description

概要

60年代の黎明期に始まった日本のインテリアデザインは、80年代から90年代にバブル景気の波に乗って大きく発展した。とりわけ東京では、デザイナーたちが個性を競い合い、華やかで実験的な表現が次々と生み出された。しかしその一方で、奇抜さが先行し、特に飲食店においては客足が伸びず短命に終わることも少なくなかった。対照的に関西では、東京に比べてインテリアデザイナーの数は少なく、派手さはないが、市民に長く愛される質の高い空間デザインが展開されていた。なかでも、高い評価を受けたのが野井成正だ。特にバー空間を多く手がけ、同業者が学びに訪れ、常に満席でなかなか入れないという逸話が残るほどの人気を誇っていた。野井は、当時の関西において最も注目を集めたインテリアデザイナーの一人であり、今なお伝説的な存在として語り継がれている。
野井は、ディスプレイや空間デザインを手がけるインテルナ・カガヤ、インテリアデザインオフィスのノブ、ジーベックを経て、1982年に個人事務所を開設。関西圏を中心に、バーや飲食店、商業空間などの空間デザインに携わった。代表作には、1990年の京都のインセンスショップ「リスン北山店」(ナショップ・ライティングコンテスト大賞受賞)、1993年の大阪のバー「川名」(日本商環境設計家協会大賞を受賞)などがある。
「リスン北山店」は、床に正方形の瓦を敷き詰め、波打つガラス製展示台にインセンスを展示。お香を現代の生活空間に馴染む、インテリアアイテムとして提案する空間デザインを構想した。一方の「川名」は、長屋独特の細長い空間に広がりをもたせるために既存の小屋梁を露出させ、光の効果によって動きのある空間を設計した。そんな野井の空間デザインの特徴は、光の巧みな演出や温かみのあるナチュラルな素材使い、店主と客双方の「人」を中心に据えた空間づくりが挙げられる。こうした要素こそが、人を惹きつける大きな魅力となっていたと考えられる。
2003年の雑誌『CONFORT(コンフォルト)』(11月号)のインタビューで、空間デザインに対する考えについて語っている。「インテリアというのは囲われている中でひとつのものを美しく見えるようにする、その装置やと思います。(中略)大事なのは、消す部分と表現する部分のバランス。映画監督・小津安二郎さんの作品のひとつに、登場人物が手前にいて背景に障子が映るシーンがあるんですけど、そこにすーっと雲の影が動く。それで風や空気感を表現してるんです。細かい部分まで気を入れて表現しているから、画面にすごく味わい深さが出てくる。店にもそれと同じような、ひとと空間のストーリがあると思うんです」。
そんな野井のアーカイブ資料を保管しているという摂南大学理工学部住環境デザイン学科の川上比奈子教授と、野井さんの事務所で働いていたインテリアデザイナーの松本直也さんに話を伺った。

Masterpiece

代表作

空間デザイン

バー「酒肆上野」大阪府(1984)、レストラン「トフィーズ・イン」神奈川県(1985)、バー「ミスティッククラブ」大阪府(1988)、バー「55」大阪府(1988)、インセンスショップ「リスン 北山店1」京都府(1989)、バー「タンギー」大阪府(1990)、「遊山」兵庫県(1991)、バー「川名」大阪府(1992)、バー「ボンバール江戸堀」大阪府(1992)、バー「九」大阪府(1993)、ショールーム「ユニオン」大阪府(1993)、焼肉店「一兆」大阪府(1993)、和食店「本湖月」大阪府(1994)、レストラン「風曜日」大阪府(1995)、ショールーム「リングリング」大阪府(1995)、バー「8月」大阪府(1996)、焼肉店「にし」大阪府(1997)、インセンスショップ「リスン 北山店2」京都府(1997)、和食店「魚真」東京都(1998)、バー「わん。」大阪府(1999)、チャペル「風詩の教会」大阪府(2000)、バー「酒や」大阪府(2000)、カフェ「ティナント」大阪府(2001)、インセンスショップ「リスン青山店」東京都(2002)、陶磁器店「一葉」広島県(2003)、バッグショップ「ヴァグリエ」大阪府(2003)、インセンスショップ「リスン京都」京都府(2004)、ブティック&サロン「コシノアヤコ」大阪府(2005)、バー「志村や」東京都(2006)、アイウェアショップ「ブリレン・バッハ」大阪府(2006)、レストラン「天の幸 山の幸」大阪府(2009)、ジュエリーショップ「カフェリング 銀座並木通り店」東京都(2009)、和食店「かこみ」大阪府(2010)、お好み焼き店「なんでんねん」大阪府(2010)

 

 

野井成正 作品

Interview

インタビュー

 

インテリアデザイナーは黒子であり、自己主張よりも
わかりやすさを優先するべきだ

アーカイブ資料について

 川上先生は現在、摂南大学理工学部住環境デザイン学科の教授でいらっしゃいますが、どのような分野を専門に研究されているのですか。

 

川上 まずは、PLATの方々がデザインアーカイブという、とても重要な試みに取り組んでおられることに心から敬意を表します。資料を記録として残すことの大切さは、私自身の専門とも深く関わっているため、よく理解しています。
私の現在の研究は大きく三つあります。ひとつは、アイリーン・グレイの研究です。大学院の博士論文では、グレイの住宅や建築のデザイン手法をまとめました。二つ目は、グレイと一緒にパリで仕事をした菅原精造と稲垣吉蔵についての調査研究です。菅原と稲垣は二人とも日本に帰らず、自身の作品もつくり続けましたが、長らく詳細不明でした。菅原は、グレイに漆を教え、協働しながら家具制作を行った人物で、稲垣はロダンが収集していたアフリカ彫刻の木製台座を制作した後、グレイの家具の仕事をしたことがわかっています。現在もフランス側から、菅原と稲垣の新たな資料や作品が続々と出てきており、今後、彼らを重要な美術家として日本に紹介する機会が増えてくると思います。
三つ目は、理工学部生命科学科の物理学者・松尾康光教授との共同研究「光合成建築」です。簡単に説明すると、捨てられる野菜や森林伐採後に残る葉など、通常は廃棄される植物資源を使い、光合成によってエネルギーと酸素を生み出す建築・プロダクトの提案です。2026年のミラノサローネ国際家具見本市の「サローネサテリテ」に招待され、松尾康光教授をはじめ同研究室の瀬溝人生助教、両研究室の大学院生たちとともに、サイエンスとデザインの融合に関する研究成果を空間デザインとして展示しました。

 

 PLATの活動について、ありがとうございます。野井さんのアーカイブ資料は、川上先生のところで保管されていると伺いましたが、大学として保管されているのでしょうか。その経緯について教えていただけますか。

 

川上 正式な大学のアーカイブではなく、今のところは私の研究室で暫定的にお預かりしている状態です。14年ほど前になりますが、私から野井先生に摂南大学の非常勤講師をお願いして、「インテリアデザイン演習」の講義をしていただいたことがあります。この大学では非常勤講師の定年が70歳なので、野井さんは70歳でご退任されました。その後は松本先生にお願いして、現在は松本先生が非常勤で来てくださっています。
野井先生が亡くなられたあと、奥様がアーカイブ資料について松本先生に相談され、摂南大学での受け入れを検討しました。けれども、大学では正式なアーカイブ資料としての手続きを通すと時間がかかり、実現できるかわからなかったため、2年前に私の所属学科でひとまず引き受けることにしました。

 

 保管場所は、倉庫のようなところでしょうか。

 

川上 資料は図書保管室に収蔵しています。野井先生の模型類や図面は段ボールに入っていますが、家具だけは梱包せず、学生が見られる状態で置いています。家具については、家具デザインの授業を担当している別の教員が野井先生をとても尊敬していることもあり、年に1回ほど、授業のなかで学生に野井先生の家具を見せる機会を設けています。それ以外の資料は、基本的に現在は公開していません。

 

松本 1980年頃から2013年頃まで、野井さんが会社を辞めて独立されて以降の資料がひと通り残っています。段ボールの換算で言うと、10箱以内だと思います。家具は、10点ほどあります。模型は廃棄したものもあり、現在は10点未満です。そのほかの資料には、データと紙焼きの竣工写真があります。

 

 それらは野井さんがご存命の頃に、事務所にあった資料ということですね。松本さんのところでも保管されている資料があると伺いましたが、それはどのようなものですか。

 

松本 一時的に分散して保管していた時期はありましたが、基本的には資料は分けない方がいいという考えで、現在はほぼすべて川上先生のところに集約しました。私の手元には、壊れた椅子などが数点あるだけです。

 

 今後の活用については、どのようにお考えですか。教材として活用したり、学生向けにカリキュラムとして体系的に見せることも考えられると思いますが。

 

川上 今後については未定です。このまま大学で恒久的に保管するのかどうかも、まだ決まっていません。現時点では「お預かりしている」という状態なので、正式な取り決めもなく、勝手なことはできないと考えています。もし長期的に保管するのであれば、きちんと文書を交わす必要があると思っています。

 

 資料を美術館などに寄贈することは検討されていますか。

 

川上 私も定年まであと3年ほどになりました。近年、大学院生の数が増えてきており、現在、研究室全体では20人以上になります。まずは院生の研究テーマとしてアーカイブを整理し、論文としてまとめるのが現実的だと思っています。その後、状況次第では大学への正式な引き継ぎや美術館などへの移行について、奥様や松本先生と相談するのがよいのではないかと考えています。大阪中之島美術館では、野井さんの追悼展を過去に一度開催されているので、ご相談してみるのもいいのではないかと考えております。

 

 

関西のインテリアデザインの流れ

 

 インテリアデザインの世界では、東京に比べると、関西のデザイナーやその動きはあまり知られていない印象を受けます。東京のインテリアデザインは、60〜70年代の喫茶店から始まり、80年代のバーや飲食店、ファッションブティックへと広がっていった印象があります。80年代がひとつのピークだったと思いますが、関西ではどういう動きだったのでしょうか。

 

松本 関西は、ファッションデザイナーの仕事もありましたが、やはり飲食とバーが中心でした。東京と一番異なるのは、予算が少ないことです。80年代のバブルの頃も、「予算がない」とみな言っていました。ですから、トレンドがどこかから発信されても、それをそのまま真似して低予算でやっても、いい空間にならないことはみなわかっている。だから、「自分ならどうするか」という方向に振り切る人が多かった。その結果、「これはAさんの空間」「これはBさん」と、誰がつくったか一目でわかる、個人の表現がはっきり出ていた空間が多いと思います。その傾向は、野井さんたちの世代からだと思います。

 

川上 野井先生の周りには予算がなかった、というほうが正しいかもしれません。ある空間デザイナーの方々のところには、お金はあったと思います。関西では、東京に比べて店の数やデザイナーの数が違うということと、お金のある案件は大手がほぼもっていってしまう。「お金はないけれど、店をつくりたい人」が、野井さんのところに来たのではないかと思います。
その一方で、野井先生は結構、仕事を断っていました。80年頃に「チャーリーブラウン」という店の空間デザインを手がけられて、そこから独立したバーテンダーが立ち上げた「川名」「ボンバール江戸堀」「九」「酒や」などの店の仕事を、野井さんは引き受けていました。お金はなかったけれど、「この人とならいい空間ができる」という基準で仕事を選んでいました。ですので、いつも「うちの事務所は貧乏や」と、よく冗談のようにおっしゃっていました。
大阪の茨木の商店街を盛り上げたいというプロジェクトでは、建築家の橋本健二さんが声を上げたのですが、その方の人柄や熱量に共鳴して、「ほな、わしも一肌脱ぎましょう」と、無償で参加していました。若い世代を育てる、応援する、ということに対しては、手弁当でもやっていました。

 

 関西では野井さんはどのような位置にいた方なのでしょうか。

 

川上 関西のインテリア業界自体が、いつ、どのように成立し、どう展開していったのかを正確に語るのは正直難しいのですが、私の感覚では「東京の倉俣史朗、関西の野井成正」と捉えられていた存在で、関西では「最も尊敬された空間デザイナー」だったのではないかと感じています。野井先生は特にバーの仕事が多く、関西の建築・空間デザイン関係者や、空間デザイナーのあいだでは、「野井さんのバーは絶対に巡らなければならない」と言われるほどで、みな必ず訪れていました。また、野井さんの追悼の会には、デザイン関係者や空間デザイナーが多数集まりました。昭和・平成・令和と、時代をまたいで評価され慕われ続けた稀有な存在だったと思います。

 

 関西から東京に拠点を移すデザイナーも多くいたなかで、野井さんのなかで東京に拠点を構えるという選択肢はあったと思われますか。

 

松本 オファーはあったそうですが、断わられていました。理由は明確で、「自分の目が離れるのが嫌だった」と。デザインは、自分の目の届く範囲で、自分のなかで完結させたい。自分の目や手を離れて、勝手に動いていくのだけは、絶対に避けたかったとおっしゃっていました。当時は今のような携帯電話や動画通話などの通信手段もありませんでしたしね。

 

 

野井成正の人柄・仕事・教えについて

 

 川上先生から見た、野井さんのお人柄や仕事の姿勢について教えていただけますか。

 

川上 松本先生のように一緒に仕事をされた方とは少し違う印象かもしれませんが、いつも飄々(ひょうひょう)としていて、ふらりと現れ、ふらりと去っていく。明るくユーモアに富み、とても優しい印象でした。そして、とてもおしゃれでした。高価な品々に身を包んでいるという意味ではなく、むしろ安価なものでさえ自分なりに着こなされていました。全身真っ白な出立ちだったり、70歳を過ぎても赤い靴を履いたりしていました。大学の演習で発表会が終わると声をかけてくださり、みなでビールを飲みに行くのが恒例でした。ビアホールがお好きで、ビールと唐揚げ、ポテトを食べる時間をとても楽しみにされていました。
一方で、仕事に対しては極めて厳格で、「インテリアデザイン」という言葉を好まれず、「空間デザイン」とおっしゃっていました。空間デザインに対するプライド、誇りはとても強かったという印象です。
また、野井さんは映画も空間デザインのひとつだと捉えていました。野井さんは膨大な数の映画を観ておられました。アクションやロマンスといったジャンルはほとんど観ず、純粋に映像美や構成、文化や人生について考えさせるような作品を好んで、奥様と一緒に映画館で観ておられました。物語性よりも、映像そのものがもつ空間性を重視されていました。

 

 松本さんは、野井さんの事務所で働かれていたそうですね。入所されたきっかけを教えていただけますか。

 

松本 野井さんが京都市立芸術大学で教鞭を執られていた頃、私の友人が教え子の一人でした。その友人と飲みに出かけたお店に、偶然、野井さんがいらっしゃったのです。それが野井さんとの最初の出会いです。当時、私は設計施工会社に就職していました。2007年にお香メーカーのリスン京都の展示会がアクシスギャラリーで開催されることになった際、野井さんからその会場設計の監督を任されました。それがきっかけで、野井さんの事務所に入所することになりました。そのときに私は25歳で、野井さんから「30歳までは面倒を見たる」と言われ、本当に30歳で独立しました。

 

 松本さんから見て、野井さんはどのような方でしたか。

 

松本 人柄で言うと、怖いとか威圧的ということはまったくなく、本当に優しい方でした。仕事では当然厳しい面もありましたが、いわゆる「教える」というタイプではありませんでした。私が事務所にいた頃は、二人しかいなかったので、一日を淡々と過ごす感じでした。最初は野井さんの現場に同行しました。その後、少しずつ現場を任されるようになりましたが、基本的には一緒に動くなかで学ぶ、というかたちでした。何かを言葉で教えられるというよりも、野井さんの仕事をしている姿を傍で見たり、一日を通して野井さんの動きや、生き方そのものを肌で感じ取ったり、「一緒に生活している」感覚に近かったと思います。

 

 仕事でのエピソードはございますか。

 

松本 デザインアイデアの構築は、いつも野井さんとの何気ない雑談から始まり、対話、そして深いディスカッションへと発展していきました。空間のコンセプトやイメージを固めるために何度も語り合い、時にはお酒を酌み交わしながら議論を重ねることも少なくありませんでした。 最終的なプレゼンテーション用のスケッチや図面に落とし込む作業は、全体の2割程度。それほどまでに、対話を重視していました。 こうして互いの意思疎通が徹底されていたからこそ、クライアントへの提案には確かな説得力が宿り、小規模の事務所ならではの機動力と連携を最大限に発揮できたのだと感じています。
また、野井さんに現場へ連れて行かれたときに、床に鉄の棒がずらっと並んでいたことがありました。その鉄材をすべて野井さんの指示のもと現場で私が切り、金物屋さんと一緒に溶接しながら空間をつくる経験をしました。野井さんの図面はいつも余白があり、現場でライブ的に空間をつくっていく。それが野井さんの仕事のスタイルでした。そうした現場主義性が、あらゆるプロジェクトの基盤にあったと思います。

 

 野井さんの空間デザインの写真を拝見すると、柱が斜めに走っていたり、厚みのある素材を使っていたり、とても力強い印象を受けます。松本さんや川上先生がお話されるお人柄とは違う印象を受けました。

 

川上 野井先生の空間デザインは、写真で見ると、たしかにパッションを感じるかもしれませんが、実際にその空間に入ると、とても柔らかいんです。力強さはあるものの、居心地のよさのほうが勝っている。力強さと包み込むような温かさが共存しています。
野井さんの手がける空間は、素材そのものを生かすということも特徴的です。例えば、バー「タンギー」など、普通なら使わないような節の多い木材をあえて用いて、材木屋のように壁一面に木材を配して木口の角度を変えて構成したお店がありました。ほとんど役に立たないと見なされがちな素材を、あえて主役にする。その空間を訪れたことがきっかけで、私は野井先生のファンになりました。

 

 野井さんは、空間デザインで何を大事にされていたのでしょうか。

 

川上 野井さんは、やはり「居心地」という点を、特に重視していた印象があります。派手さや強さではなく、長く使われて、長く居られること。そのために素材の扱い方、寸法、視線、身体感覚のバランスを厳密に追求していたと思います。お酒を呑む方でしたし、自分でお酒もつくられる。だからこそ、バーという空間を身体感覚で理解されていたと思います。一人でぼーっと呑むときにどこに視線を向けるか、理想的な照明の明るさ、マスターとの距離など、細部まで考えていました。
例えば、野井さんが設計されたバー「遊山(ゆうざん)」のカウンターは、ツガ材を何層も貼り合わせた重厚なつくりで、80から90センチとかなり奥行きがあります。この距離感が面白くて、マスターと自分、隣のお客さんとの距離が二等辺三角形、あるいは正三角形に近い関係になるんです。距離が近すぎると、隣の人に気を遣ってしまうけれども、これだけの距離があると、自然に会話が生まれるのです。その話を野井先生にしたら、「その通りです。まさにそれが狙いでした」とおっしゃっていました。そのカウンターの奥行きや隣同士の間隔を詰めて、収容人数を増やせば売上はもっと上がったはずです。でも、あえてそうしなかった。マスターの背後も、客席の背後も十分なスペースが確保されている。一人あたりの空間量がとても多い、とても「豊かな」バー空間になっていて、その空間の量そのものが居心地をつくっているのです。実際、野井さんのバーに行くと、私も離れたところに座っている隣の人とでもよく話していました。
その「遊山」は、マスターの小出登さんが亡くなり、娘さんたちがそのお店を保持できなくなり、たたむことになったそうなのですが、一昨年前の6月、小出マスターの娘さんと野井先生のファンたちによって1日限定でお店をオープンしました。SNSなどを通じてごく少人数のお客さんに告知されただけでしたが、来店客がひっきりなしに訪れ、一日中大宴会となりました。建築家や空間デザイナーも多数足を運び、このお店がなくなるのをみなさん惜しんでいました。

 

 野井さんは、お店の運営まで考えられたと伺いました。

 

川上 そうですね。野井さんは空間デザインだけでなく、店の運営の仕方にまで踏み込んで取り組みました。例えば、「カウンターの上には何も置かないでほしい」「店の理念が合わなければ仕事は引き受けない」といったことを、オーナーである施主にはっきりと伝えていました。それは決して高圧的ではなく、「自分に頼む以上は、この空間を守ってほしい」という姿勢だったと思います。その結果、完成した店は長くスタイルが保たれていました。装飾を排し、木の風合いをそのまま感じてもらう。お客さんを優しく柔らかく迎えるために、余計な情報を感じさせるものを置かない。一見厳しそうに見えるルールも、すべて居心地の良さにつながっていたのだと思います。

 

 照明計画は、野井さん自身がされていたのですか。

 

松本 そうです。当時は、ライティングデザイナーという職能が、まだあまり育っていない時代ですから、全部自分で考えていました。野井さんのバー空間は、直接光源が見えることはほとんどありません。必ず一度、壁や素材に当てるか、和紙を通すなどして徹底的にグレアを排除しました。

 

川上 野井さんはよく、「本当は、光はゼロが一番いい」とおっしゃっていました。人工的な照明の光ではなく、外の自然光がベストということです。でも、バーではそれは不可能なので、本当はロウソクのような灯りがいいと。煌々と照らすのではなく、できるだけ少ない光量で感動をつくることが自分の仕事だ、とよくおっしゃっていました。客の手元は明るくなり過ぎず、お酒の色はきちんと見えるようにして、空間の中でどこを一番明るくするかということも慎重に検討していました。

 

 野井さんは光に関して、とてもこだわりをおもちだったのですね。そのなかで松本さんが野井さんから一番学ばれたことは何ですか。

 

松本 デザインに関しては、「誰にでもわかりやすく」ということに尽きます。複雑にし過ぎずに、シンプルに考えれば考えるほど利用者が理解しやすくなります。インテリアデザインにおいては、デザイナーは黒子であり、自己主張よりもわかりやすさを優先すべきだと教わりました。また、「汗をかきなさい」ともよく言われました。頭で考えモデルをつくるだけでなく、現場に足繁く通い、現場の変化に対応することの大切さを教わりました。

 

 野井さんは、大学でも教鞭を執られていましたね。

 

川上 摂南大学のほか、京都府立大学、京都市立芸術大学でも教えていました。教育スタイルは、手取り足取り教えるタイプではありませんでしたが、晩年は若い人たちと話し、伝えることに熱心でした。授業は内部空間のデザイン演習が中心でした。カフェや店舗のデザインを課題にして、コンセプトを立て、図面を描き、パースをつくり、模型をつくるという、とてもオーソドックスな構成です。最後に講評をするという流れでした。

 

 講評では、どんなことをおっしゃっていたのですか。

 

川上 一般的に建築や空間デザインの分野では、エスキースを何度も繰り返し、模型を大量につくってブラッシュアップしていきます。ところが、野井さんは真逆で、「最初のインスピレーションで決めろ」「最初のアイデアを最後まで貫き通す強さをもて」とよくおっしゃっていました。とにかく最初のアイデアが大事だと。あまりにも取り組みが甘いと、「君は僕をバカにしているのか」と一言。その瞬間、周囲の教員が緊張するほどでした。ただし、怒鳴るようなことはほとんどありませんでした。70歳で非常勤を退任されたあとも、毎年必ず講評会に来てくださいました。野井さんの代表作のひとつ、「リスン京都」というお香屋さんがありますが、その空間を「もしリノベーションするとしたら、自分だったらどうするか」という課題を、何年も続けていました。その講評の場でも、学生一人ひとりに丁寧に質問し、対話を重ねていました。
もうひとつ、繰り返しおっしゃっていたのが、「店は自分の作品じゃない」「作品だと思ってつくるな」ということです。店の人が気持ちよく使えないとだめ、お客さんが危険を感じる空間ではだめ、人が入りにくい、座りにくい、くつろげない場所であってはならない。どんなにかっこよくても、使いにくい空間は失格だ、と。一方で、「使いやすければいい」というだけでもだめとおっしゃっていました。アート性と実用性のあいだの、絶妙なバランスを大事にされていたと思います。

 

 

日本にデザインミュージアムが少ないことについて

 

 このPLATのデザインアーカイブの取材では、みなさんにお聞きしているのですが、日本にデザインミュージアムが少ないことについてご意見をいただければと思います。

 

松本 日本にデザインミュージアムは、これからの日本に絶対に必要な場所だと感じています。日常で触れるものの背景にある意図を「体験」することは、私たちの感性を養ううえで極めて重要だからです。 実際、日本のデザインはジャンルを問わず世界で高く評価されていますが、日本人の多くはその事実に無頓着です。しかし、デザインの素晴らしさに気づくためには、単に享受するだけでなく、意識的に「知る」プロセスが欠かせません。ミュージアムのように自ら好奇心をもって足を運ぶ場所と、生活の中で自然に良質なデザインに触れる環境。この両輪がそろって初めて、デザインへの知見が深まり、日々の生活はより豊かで洗練されたものへと変わっていくはずです。
現在、私は北京にある、日本の建材メーカーのショールームで個展を開催させていただいておりますが、現地では日本国外の方々から、日本のデザインに対する称賛の声を直接いただく機会が多々あります。こうした外からの視点に触れるにつけ、私たち日本人も自国のデザインの価値を正しく認識し、それが誇りや自信が生まれてくることを願っています。

 

 川上先生はデザインミュージアムについてどう思われますか。

 

川上 ぜひとも日本に欲しいところです。フランス、イギリス、イタリア、オランダ、デンマークなどのヨーロッパに比べ、日本ではデザインの素晴らしさがいまだに伝わっていないと日々感じます。日本人は衣食住という、基本的なニーズが満たされればそれで十分だと考える傾向があるような気がしています。デザインの存在意義や価値を、いかにわかりやすく伝えるのが最善か、日々考えています。そうした理由からも、デザインミュージアムは不可欠だと思っています。
デザインというと、かっこいいものや高価なものとして扱われ、「上澄み」のものと見なされがちです。私は、デザインは生きていくための哲学、物質的機能としてだけでなく精神的機能に必要不可欠な生活の一部として自然に存在すべきだと考えています。場合によっては、デザインミュージアムとして設立されてしまうと、かえって特別なものになってしまうかもしれませんね。方向性の決定や体系化も難しい課題ですが、資料のアーカイブ化と保管は必要です。特に空間デザインは物と物のあいだをつくるものなので、写真や動画でその魅力を伝えるのは困難です。来館者に家具に座ってもらったり、スケッチや文章も展示して雰囲気を伝えるのもいいと思います。空間デザインは、デジタル化して表現するのは難しいと感じています。

 

松本 じつは今、野井さんの展覧会を計画しているところです。けれども、2年前に野井さんの追悼展を大阪と東京で巡回したため、それとは違う新しい企画やプロジェクトメンバーも必要で、前回からのステップアップが重要だという話になっています。大阪では、大阪中之島美術館で1日限りの展示を開催しました。当時は来場者の多くが野井さんを知っている人でしたが、次は野井さんを知らない若い世代にも来てほしいと考えています。そのために、どのような内容にすべきか検討を進めています。

 

川上 その野井先生の追悼展では、野井さんが設計した柱と梁の構造を再現してカウンターをつくり、バーとして来場者が体験できるようにしていましたね。

 

松本 さまざまな分野の野井さんにお世話になった方々の有志で一緒にそのカウンターを施工しました。その後、カウンターの保管の話が出て、一時的に材木屋さんに保管してもらったのですが、ずっと置かせてもらうわけにもいかず、解体してしまい、現在はすべては残っていません。

 

 今回のお話で、野井さんが関西でとても注目されていたこと、才能あふれる方だったかということを改めて実感しました。展覧会の実現を楽しみにしております。本日は貴重なお話をありがとうございました。

 

 

 

野井成正さんのデザインアーカイブに対するお問い合わせは、
NPO法人建築思考プラットフォームのウェブサイトからお問い合わせください。

https://npo-plat.org