日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
石橋 寬
公益財団法人石橋財団 理事長
アーティゾン美術館 館長
株式会社アクシス 会長
インタビュー:2025年9月18日 15:00~17:00
場所:石橋財団
取材先:石橋 寬さん
インタビュアー:関 康子、浦川愛亜
ライティング:関 康子
PROFILE
プロフィール
石橋 寬 いしばし ひろし
公益財団法人石橋財団 理事長
アーティゾン美術館 館長
株式会社アクシス 会長
1946 福岡県生まれ
1964 米国留学(~1971)
1971 アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン(ロサンゼルス)修学
1973 ブリヂストンタイヤ株式会社(現・株式会社ブリヂストン)入社
1981 株式会社アクシス 設立
1994 株式会社ブリヂストン 監査役就任(~2012)
2004 財団法人石橋財団 理事長就任
2014 ブリヂストン美術館 館長就任
2020 アーティゾン美術館(旧・ブリヂストン美術館)開館
2023 ドイツ、Red Dot Design Award、Personality Prize 2023受賞
Description
概要
その国にモダンデザインが根付くにはそれなりの時間がかかる。まずはデザインが育つための産業があり、デザイナーたちに活躍の場が与えられ、彼らが生み出したデザインが製品やサービスというかたちで生活者に届き、デザインの価値や有用性を発信/啓蒙する仕組みが整う、さらにそれらが円滑に循環する環境整備が不可欠である。そこには、例えば、「これからはデザインの時代だ」と、日本初のインハウスデザイン部門を創設した松下幸之助、創業時からデザインの有用性を理解し経営資源として活用した井深大と盛田昭夫、自らがスーパーデザイナーであった本田宗一郎など、この循環のエンジンとなる経営者の存在があった。
石橋寬は彼らの系譜にありながら彼らとは違ったアプローチでデザイン経営を実現している、日本において数少ないファウンダーの一人である。石橋はブリヂストンと石橋財団(アーティゾン美術館の運営母体)の創設家の三代目であり、アメリカで豊かなライフスタイルを体験しデザインを学び、「デザインを日本に広げたいという思い」をさまざま立ち位置で実現してきた。ブリヂストンではデザイン部門を立ち上げCIやマーケティングを推進しデザインを経営資源として位置付けた。AXISではプロデューサー的視点から多様なメディアと事業を実装させてデザインの有用性を啓蒙し定着させた。石橋財団では美術館経営を通してデザインをも包括するアートの新たな地平を切り開いている。そこでは「守成」に留まらずデザインや文化という「ソフトパワー」を用いて、自らのビジョンの具現化に不可欠な「精度の高い環境」を整備するのだという意志と姿勢が貫かれている。2023年には長年の功績によりドイツの権威あるレッド・ドット賞、個人賞を受賞している。
デザインに新たな地平を切り開くことが期待されている今こそ、石橋のような視点と行動力が求められている。今回は、さまざまな実績を通してデザインへの思いと展望を語っていただいた。その足跡はそのまま日本のデザインの歩みと連動していることを再認識することとなった。
Masterpiece
主なプロジェクト
株式会社アクシス 設立(1981)
・六本木AXISビルオープン
・デザイン誌『AXIS』創刊
株式会社ブリヂストン コーポレート・アイデンティティ・システム導入(1984)
ブリヂストン美術館リニューアル 開館(1999)
石橋財団アートリサーチセンター 竣工(2015)
ミュージアムタワー京橋 竣工(2019)
アーティゾン美術館 開館(2020)
石橋財団アートリサーチセンター増築 竣工(2025)
Interview
インタビュー
踏みとどまっていては取り残されるだけ
時代とともに前進していくしかないのです。
カーデザイナーを目指して
ー 2023年、*Red Dot Design Award 受賞おめでとうございました。石橋さんは1970年代から今日に至るまで、ブリヂストン、AXIS、アーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)を通してさまざまな事業をゼロから立ち上げ、デザイン界に大きな影響を与えてこられました。本日はそれら事業のファウンダーという立場から、そのお考えや実践、さらにデザインミュージアムやアーカイブについてお話を伺いたく。 最初に、石橋さんは、印象派や日本の近代洋画などアートのコレクションで知られる旧ブリヂストン美術館の創立家の三代目でいらっしゃいますが、「デザイン」を核に活動されるようになった背景は何だったのしょうか?
*Red Dot Design Awardは、1955年ドイツ・エッセンで創設された、世界的に権威のある国際デザイン賞。プロダクトデザイン、ブランドとコミュニケーションデザイン、デザインコンセプトの3部門を対象に実施。
石橋 私がデザインに興味を持ち始めたのは中学生の頃でした。家庭環境はごく普通でしたが、父(石橋幹一郎)は北欧家具が好きで自ら「バイタフラム」と呼ぶゴムの板ばねを開発し、家具メーカーに発注したりしていたことを覚えています。私自身は小さい頃から車好きで、それが成長とともにデザインに惹かれたきっかけだったかもしれません。
ー 石橋さんはデザインコンサルタントのゴードン・ブルースさん、そしてアーティストの鴻池朋子さんとの対談のなかで、祖父の正二郎さん、父の幹一郎さんがともに自動車好きだったと語っておられます。つまり三代にわたって車好きだったのですね。
石橋 祖父の正二郎は福岡県久留米市で家業を継いですぐに九州で初めて自家用車を購入したくらいに車好きでしたが、後年は経営者という立場から自ら運転は慎んだようです。父の幹一郎も、私がある夜書斎を覗くとプリンスグロリアの初期モデルの写真を熱心にコラージュしていて、やはり車のデザインに興味のある人だったと思います。
一方、私は1960年前後だったと思いますが、祖父がプリンス自動車工業(1966年日産自動車と合併)の経営に関わっていたこともあり、父が荻窪にあった工場に連れて行ってくれたことがありました。そこにはトリノショーから戻ってきたばかりのジョバンニ・ミケロッティ(1921-80、イタリアのカーデザイナー)がデザインしたターコイズブルーの「プリンス・スカイラインスポーツ」が置かれていて、その鮮やかな色彩とデザインにすっかり魅了されて、中学生の頃には自分で車のスケッチを描くようになっていました。その後フェラーリのPシリーズというレーシングカーがとてもかっこよくて一生懸命スケッチするのだけれど、エアロダイナックスの丸みのあるラインを上手に描けなくて苦戦していました。その頃父が三面図で描いて見ろというので、それを習ってみたらうまく表現できたこともありました。とは言え、あくまでも趣味の範囲のことで、デザイナーになろうとは思っていなかった。
ー その後、アメリカに留学して、1969年にロサンゼルス、パサデナのアートセンター・カレッジ・オブ・デザイン(ACCD)に入学しカーデザインを学ばれました。ACCDといえば多くのカーデザイナーを輩出した学校として知られています。
石橋 ACCDで在籍していたのは1969年から71年までです。1964年にアメリカにわたり、ハイスクールからアメリカの大学に入学し教養課程を終えて、さて何を専攻するか将来どんな仕事をしたいのかを考えたときに、デザインをやってみたいという気持ちが強くなってきました。カーデザインを専攻したのは、車が好きだったからでもあったのですが、デザイナーにならなくても将来何かの役に立つだろうと考えたからです。卒業後はアメリカの自動車産業の中心であるデトロイトでカーデザイナーとして働くつもりでしたが、ベトナム戦争の影響で治安がとても悪くなり、帰国せざるを得ませんでした。
ブリヂストンでデザインの種を蒔く
ー そしてブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)を拠点に活動を開始された。
石橋 東京に戻ってきたあと、仕事をしてはということで、まずはタイヤのアルミホイールのデザインを手がけることになりました。こんな事態を予測してカーデザインと合わせてインダストリアルデザインを学んでいたことが役立ちました。最初はブリヂストンサイクルで、後にブリヂストンタイヤのインハウスデザイナーとして仕事が始まったわけです。
ー その頃、社内にデザイン部門はあったのですか?
石橋 ありませんでした。メインの事業だった自動車用タイヤですらトレッドパターンを技術者が描いていました。デザインに近い部署としては宣伝部がありましたが、専門家はおらずクリエイティブはほとんど外注していて最終判断は社長の幹一郎が行っていました。そんな状況で私たちが最初に取り組んだのがアルミホール、化成品の寝具類、FRPのバスタブなどのデザインでした。初めに小平の技術センターに「デザイングループ」ができて、その後京橋の本社内に移転しました。
当初、私はブリヂストンサイクルに関係していて、当時同社のデザイン部長で後にAXIS誌の編集長を務めてくだった林英次さんにお会いして、インハウスにおけるデザインの在り方や実務を教わりました。例えば、私が担当していたアルミホイールは鋳造だったので、鋳造や関連部品の生産現場に連れて行ってくださった。この経験を通してインダストリアルデザインでは生産ラインや製造プロセスなど、現場に関する知識と洞察が欠かせないのだと認識しました。
ー 私もAXIS時代には林さんにはいろいろなことを教わりましたが、他にエピソードはおありですか?
石橋 いくつもありますが、ひとつは「プロダクトコンパリゾン」ですね。デザインを提示するだけでなく、ライバル製品を徹底して比較分析するということです。それに関係して雑誌やカタログはかならず2冊入手して、1冊はばらばらにして切ったりはったり、手を動かして理解するということ。まさに商品企画のプロセスでした。
ー デザインなどの企画を出すときには、A案、B案の最低でも2案用意しなさいというのもありました。A案は会社の方針通りの案、B案は自分が実現したい案。常に2案以上用意すべきだと。
石橋 それから「デザイナーはインハウスであっても反骨精神を持ち続けなければならない、けれどその気持ちが50パーセントを超えたらいけない、超えたならば退社するしかない」とか。林さんは私にとってデザインの師匠であり、デザイナーという枠を超えて、企業人、人間としての在り方を教えていただきました。
ー こうした修業を経て、石橋さんはブリヂストンという土地にデザインの種を蒔かれていったのですね。
石橋 そうですね。ただ私一人ではなく、新たなメンバーや各部署に分散していたデザイナーが一堂に会するようになって、ようやく小さいながら足がかりができたことが大きかったと思います。主要製品であるタイヤのデザインは性能第一で技術部が開発を担っていてデザイナーの出番はなかったけれど、林さんの提案でタイヤのパターンの試作を木型でつくるようになりました。実は私も一度だけタイヤのパターンをデザインしましたが、ノイズや水はけがまったくダメだと言われて採用されませんでした。(笑)こうして4,5年かけて少しずつデザインの芽を育てていったわけです。
ー その流れがブリヂストンタイヤのコーポレート・アイデンティティ(CI)導入や社名変更の動きにつながったのですね。
石橋 そうです。デザイングループが「デザイン室」に格上げされて京橋に移ってきた頃、社内で静かにCI導入の機運が持ち上がっていました。その頃ブリヂストンタイヤはモータースポーツ分野に進出していて、レーシングカーに当時の黄色と赤のキーストンマークをつけていたのだけどスピード感や躍動感が伝わらない。そこで私たちはこっそりマークをいじって宣伝部に注意されたこともありました。私はその経験からマークやロゴタイプを見直して整備しなければならないとCI導入を後押ししました。
一方、経営という側面からも市場環境の変化に適応していく必要がありました。1970年代後半になると団塊の人たちが車などの購買層の中心に台頭してきた。彼らは戦後日本の流行をつくってきた世代であり以前の日本人とは価値観が大きく違っていて、彼らのニーズに応えるために企業も変わらないといけなかった。ちょうどブリヂストンタイヤも1981年に創業50周年を迎えるにあたり、新しい時代への体質改善はもちろん、対外的な印象や見え方を変える変革の時期にあったのです。
ー そこで石橋さんはどのような役割を果たされたのですか?
石橋 CIのようなプロジェクトはボトムアップではなくトップダウンの方が進めやすい。どう進めていこうかと思案していたところ、私は経営企画室にも籍があったので提案してみろと言われて、欧州に調査研究に行くことになったのです。そこでドイツのブラウンとイタリアのオリベッティの2社を訪問し、デザインの現場を見学し、デザインマネジャーにインタビューし、企業文化や風土とデザインオリエンティッドな経営の関係性について考えました。そして、CI導入は表層的に取り組んでも効果は薄く、デザインをいかに企業哲学、企業文化として融合させていくか、そのためには全社的に長い時間をかけて浸透させていくことが重要だという考えに至ったのです。つまり一担当者が実現できる仕事ではなく、会社を総合的に動かしていかなければならないということです。
帰国後、ブラウンとオリベッティの2社の調査報告書と私の考えをまとめた企画書を合体したプロポーザルを準備して経営陣にプレゼンし、「やってみよう」ということになった。しかし当時はCIという言葉も概念も認知されておらず、いったいどこから手をつければよいのかわからなかったし、創業者が考え出したキーストンマークはブリヂストンタイヤの象徴でもあり、これを変更することには反対の声も大きかったのです。
ー そんな状況のなか、どのように具現化されていったのですか?
石橋 プレゼンの後、社内にCI委員会が設置され、同時に経営企画室のなかにプロジェクトチームを立ち上げてCIの第一人者であるPAOSの中西元男さんにお会いしました。中西さんは3MやIBMなどの欧米企業のデザインマニュアルを調査して、1971年に『DECOMAS=Design Coordination as A Management Strategy』という本を出版し、CIとは単に表層を変えることではなく経営と一体化したデザイン戦略が不可欠であり、ロゴやシンボルマークは企業哲学を表現したものでなければならないと主張していて、すでにマツダや松屋銀座などのCIで実績をあげておられた。その中西さんの思想や活動に共感しプロジェクトに参加いただくことになったのです。
この動きに呼応するようにデザイン室も人数が増えて、CIのような大きな業務に対応できる環境が整備されつつありました。デザイン室はその後1981年のAXISビルオープンと同時にデザインセンターとして六本木に移転し、1990年に飯倉総合研究所という総合デザインコンサルティング会社として独立しました。

ブリヂストンCIツリー
ー 1984年に社名がブリヂストンタイヤからブリヂストンに変わり、新しいCIが導入されて、その後もおおむね原型を留めて現在に至っています。1980年代初頭ちょうどCIプロジェクトが進んでいる頃に、私は半年ほど京橋のデザイン室で研修を受けましたが、みなさんが「POTENZA」と「REGNO」というタイヤブランドのデザインやテレビCMの準備をしていたことを覚えています。あれはタイヤにおけるブランディングだったのですね?
石橋 CIと同時期にブリヂストンのマーケティングも関係しました。ブランディングに取り組んだ動機はブラウンとオリベッティの調査であり、購買層としての団塊世代の台頭という社会的要因が大きかった。マーケティング的にみると、1979年に発売された「POTENZA」はマニア向け、スポーツドライブ市場を意識したブランドで、タイヤ開発は技術部主導で進みましたがネーミングやイメージづくりはデザイン室もサポートしました。1981年に発表された「REGNO」はブリヂストンを象徴する高級車向けのフラッグシップブランドであり、ロゴなどのデザイン開発、新しい購買層をターゲットとしたテレビCMからイベント企画まで、戦略的にブランドデザインを進めました。
ー 両方とも今も続くロングライフブランドですね。「REGNO」の最初の広告宣伝にはショーン・コネリーが採用されました。話題になってよく覚えています。
石橋 そう、世界的なスターであったショーン・コネリーに白羽の矢がたった。彼のいぶし銀のような佇まいが、当時の若者や団塊世代の憧れの対象として「REGNO」のイメージに合っていました。彼にはトレンチコートを着てモーガンやフェラーリといった名車に乗ってもらって、「REGNO」のイメージを体現してもらいました。広告写真は操上和美さんが撮影してくださって楽しい現場でした。この頃から仕事を通して中西元男さんや操上和美さんといったクリエイティブの世界のプロフェッショナルと一緒に仕事をする機会が増えて、大いに学び刺激を受けました。
AXISを軸にデザインを日本に広める
ー 当時、石橋さんは30代前半。その年齢でブリヂストンではデザイン部門を立ち上げ、CIを推進し、主力商品のブランディングを実現しつつ、六本木のAXISプロジェクトにも取り組んでいらしたのですね。
石橋 AXISプロジェクトが始まったのは1976年。AXISビルのある場所は多くのブリヂストン関係会社が創業し育っていった大切な土地でした。同年、創業者の正二郎が逝去したこともあって、私に今までにない新しい事業を考えなさいという課題が出されたのです。当時六本木は若者が集う最先端の地域として注目されていたけれど、それを当て込んだ単なる貸しビル業ではつまらないし、かといって文化事業で採算をとっていくには工夫が必要でした。そこで私が最初に提案したのはオープンパークにして都会のオアシスにしようというもの。とは言ってもひっそりとブリヂストンが提供しているとわかる仕掛けを組み込んで、企業としての奥深さを感じてもらうのがいいのではないかと考えました。
ー 最近、数寄屋橋のソニービルの跡地がソニーパークとして公開されて話題になっていましたが、その先取りともいえるアイデアだったのですね。そこには石橋さんがブリヂストンの企業文化に深くコミットしていたことも関係あるのでしょうか?
石橋 そうかもしれませんね。けれど公園では採算が取れるわけもなく、その案は難なく却下されました。(笑)私たちは新規事業の準備に取りかかったのですがノウハウがなかったので、協働できるコンサルタント探しも始めました。そして、神戸のローズガーデンや青山のフロムファースト、渋谷の東急ハンズをプロデュースした浜野商品研究所(以下浜研)の存在を知り、代表である浜野安宏さんに面談して一緒にやりましょうということになった。浜研は文化的事業の実績とクリエイターとのネットワークを持っていて、三宅一生さん、田中一光さん、磯崎新さん、倉俣史朗さんをはじめとした多くのクリエイターを紹介してくれて、彼らと議論を重ねるうちにおのずと方向性が見えてきました。
それは日本にもっとデザインを広め、日本人が良いデザインを知り生活に取り込むきっかけとなる事業を興そうということで、まさに私がアメリカから帰国して初めて感じた「日本にもっと良いデザインを」という思いを実現させることでした。しかし文化事業だけでは採算が取れない。そこで建物の半分を賃貸にしてその収益を利用してデザインを広める活動を行おう、それがデザイン誌『AXIS』の創刊、AXISギャラリーでの展覧会の開催、デザインオリエンティッドな直営ショップの経営でした。今で言う「プロデュース」ですね。AXISはデザイン啓蒙運動や運動体のように語られましたが、私が願っていたことは「デザインを日本に広げたい」というシンプルな思いだったのです。
ー 1981年9月にオープンしたAXISビルは、「デザインと生活の提案体―日常の地平まで深く根づいたデザイン、商品、活動を具体的に街角の日常的ないとなみに表す」とあるように、すべてがデザインオリエンティッドかつ実験的でした。
石橋 内田繁さんのスタジオ兼ショップだった「チェアーズ」、近藤康夫さんの独立後初仕事だった川久保玲さんのホームウェアショップ「ローブ・ド・シャンブル」、ヨーガン・レールさんのリネンショップ「ティント」、照明会社のヤマギワ、マリオ・ベリーニさんが設計した「インターデコール」と「アルフレックス」などのイタリア高級家具のショールームなど、多彩なテナントが入りました。またAXIS直営の「リビング・モティーフ」はイタリア帰りの植木莞爾さんが、車のアクセサリーショップ「ル・ガラージュ」は倉俣史朗さんがインテリアをデザインしてくださった。AXISビル全体が当時の錚々たるデザイナー、クリエイターの方々の作品だった。
ー 『ジャパン・インテリア・デザイン』という雑誌のまるまる1冊がAXISの特集号でしたね。建物も画期的でした。建物の中央は吹き抜けの大きな中庭になっていて、半戸外の通路から中庭を介して人の気配が伝わってきて、顔見知りの挨拶やおしゃべりの声が聞こえてくるような豊かな空間でした。今でこそ普通になったパブリックやコモンという概念を包括した建物でした。そしてその真ん中に倉俣階段がある。建物も石橋さんのコンセプトですか?
石橋 閉ざされた建物ではその中に何があるのか、何が起こっているのかがわからない。採算性は敷地いっぱいに閉鎖的な建物をつくるほうが良かっただろうけど、それではつまらないなあと。お陰で建物の面積は半分になってしまいましたけど。(笑)
AXISビルでもうひとつやってみたかったことは建築が都市に開かれているということで、ビルの1階は街路の続きとして誰もが自由に通り抜けられます。倉俣階段を登って上階の廊下は歩道の延長として自由に行き来できます。街並みに溶け込むように高さは5階建て、道に面した壁面は万が一の場合に落下したガラスで通行者を傷つけないようにタイル張りにしています。建築の基本デザインは私とスペースデザイン担当のブリヂストンのインハウスデザイナー、そしてアーキテクトデザインという設計事務所、施工は竹中工務店のチームで進めました。

AXISビルの中庭の様子。中央が倉俣階段
ー そのコンセプトを象徴していたのが「寛容なる白い箱」というオープン時のキャッチフレーズですね。
石橋 そうですね。「どうぞ、みなさんいらしてください」という気持ちを込めました。
ー 今振り返るとあの当時のAXISは、まさに「デザインミュージアム」だったと言えますね。
石橋 当初デザインミュージアム的な事業も考えたのだけど採算性を考えると困難でした。それに捉え方はさまざまだけど、ミュージアムのように良いものが展示/販売されているだけでは物足りないと思っていたところ、照明デザイナーの藤本晴美さんが「ビルの上階を最先端の照明や映像設備を駆使したフリースペースにして、展覧会やイベントを開催したらいいのでは?」とおっしゃって、それがAXISギャラリーと飯倉スタジオになりました。
ー デザインを「物」だけでなく「事」でも考えようということですね。そういう意味では「東京デザイナーズスペース」や「青画廊」、後にヤマギワの「イン・スピレーション」など、人が出会い何かが生まれる場所や仕掛けもたくさんありました。また内田繁さんデザインのレストラン「ア・タント」や中庭に面したカフェなど、デザイナーだけでなく豊かなライフスタイルを求めた人たちが集い、何かが生まれる場所であることも意図されていたのですね。
石橋 そうですね。まさに体験型スペースの走りだったように思います。そもそもデザイナーという職業は世の中に存在しない新しい価値や物を生む出すことで、産業だけでなく社会や文化、生活に貢献するという責任ある仕事です。例えばインダストリアルデザインは、それを使う人たちに機能や精神的な満足感をもたらし、企業側には製造しやすく売れるものでなければならない。とても高度な思考を求められ、単に絵を描く仕事でありません。ビジュアライズとはさまざまな実験や思考を経た最後の段階なのです。1981年頃は一般の人たちは誰もそのことに気づいていなかったから、AXISを通して伝え、認識してほしかったのです。
ー 当時のAXISはサブキャッチとして「Living/Design/Concept」を掲げていました。
石橋 そう、つまりデザインを考える上で「コンセプト」が大切だということです。当時はコンセプトという言葉も一般的ではなかったけれど、「Living/Design/Concept」を掲げた理由は、リビングは「暮らし」、デザインは「物」、コンセプトは「思想」、どれも同じくらいに大切だということです。直営ショップのリビング・モティーフ(以下LM)は、身近なテーマとして「Living/Design/Concept」を体現させたもの。LMはグッドデザインをミュージアムのように見せるだけでなく、具体的なプロダクトとして暮らしに生かしてもらうことによって良いデザインを広めたいと考えました。
ー 当初はテキスタイルを中心としたオリジナルグッズも開発していました。
石橋 一般的な花柄ではなくてストライプを基調としたオリジナルファブリックです。シーツなどのリネンや小物類などをブリヂストンのデザインセンターとそのネットワークを活かして開発しました。あれは、オリジナル商品でショップのキャラクターを構築するという狙いもあったのです。
ー AXISは「Living/Design/Concept」を体現した空間メディアとして一流のデザイナーが交錯し、関わってくださいました。印象に残っているエピソードなどはありますか?
石橋 AXISは80年代から90年代にかけて日本のデザインセンター的な存在で、国内外のクリエイターがまさに千客万来でしたので絞り込むことは難しいですね。とは言え、例えばオープニングイベント「エットレ・ソットサス展」は、後にメンフィスに位置付けられる作品を初めて紹介して日本にポストモダンブームを引き起こすきっかけになり、これを機にソットサスさんは来日する度にAXISに寄ってくれて哲学的なお話を聞かせてくださった。倉俣史朗さんは事務所が近くだったこともあってよくア・タントでランチをされていて、AXISを我が庭のように使っておられた。そんなご縁から私はブリヂストンの仕事もお願いしました。今では鉄道車両デザインの重鎮である水戸岡鋭治さんは当時イラストレーターとして活動されていてAXISビルや店舗のパースを描いてもらいました。外国の方でも、エットレ・ソットサス、アレッサンドロ・メンディーニ、マリオ・ベリーニ、エンツォ・マリ、ジョルジェット・ジウジアーロなど、語りだしたら切りがありませんね。
ー 海外デザイナーといえば、AXISギャラリーで東京モーターショーに集結した世界的なカーデザイナーを歓迎する「オートモーティブ・デザイナーズ・ナイト」というイベントを開催していました。
石橋 第一回はたしか1980年代終わり頃だったと思うけど、当時日本はバブルで勢いがあり東京モーターショーは大盛況、世界中の一流のカーデザイナーが集結していました。ところが彼らが集まれる場所がないということで、私とACCDの卒業生でカーデザイナーの伊藤邦久さんが音頭を取ってア・タントでレセプションを企画しました。20名ほどが集まってくださったのだけど、その一人がGMデザインの総帥でカーデザインの神様といわれていたチャック・ジョーダンさんだったのでとても驚きました。これをきっかけに名称も「オートモーティブ・デザイナーズ・ナイト」とつけて、『Car Styling』、『NAVI』と『AXIS』の3誌が中心になって2年ごとに継続することになったのです。
ー AXIS誌も東京モーターショーに合わせて特集を組んでいました。当時の興味は車のスタイリングでしたが、その後は環境やエネルギーなどに移っていきました。振り返ると80年代から90年代へ、この時期はデザインの分岐点だったかもしれません。
石橋 1986年に自動車特集を組んだときには「モビリティーデザイン」と言う視点がこれからの主流だと提起したこともありました。今になってみると早かったですね。
AXISの創業時はまだデザインが社会や生活に浸透していなかったので、デザインミュージアムという保守的・伝統的な施設よりも、もっと生き生きとデザインを体感できる場所をつくることを目指しました。そもそもデザインが一般に浸透したのは80年代中頃からだと思います。日本企業のグローバル化が進み、海外で日本製品の質の高さが知られるようになったのも同じ時期だった。三宅一生さん、山本耀司さん、川久保玲さんら日本のファッションデザインが注目され、ソニーやホンダ、トヨタ、キヤノンといった企業がインダストリアルデザインをけん引していました。AXISはその社会潮流の真っ只中にいました。AXIS誌は1985年にワシントンDCで開催された「世界インダストリアルデザイン会議」(ICSID)で表彰されました。日本経済の高揚が世界中のデザイナーを日本に引き付けていて、1989年に名古屋で開催された世界デザイン博覧会とICSIDの世界大会はまさにその頂点だった。その後、日本ではバブル経済がはじけて1990年代に入ると社会が沈静化しデジタル技術が社会や生活に浸透するにつれて、デザインもそれまでとは違った方向性を模索する時代に入っていきました。
ー そして現在ようやくデザインミュージアムの必要性が言われているわけです。そういう意味でAXISギャラリーもAXIS誌同様、時代とともに多くの企画展、例えば、「エットレ・ソットサス展」、「ブラウン:形を超えたデザイン展」、「三宅一生 A-POC展」「情報のデザイン展」、「Super Normal展」など、時代のテーマをキャッチした展覧会を開催し、新しいデザイン像が提案され続けています。

AXISギャラリーは個人展、企業展、テーマ展など、時代性を反映した斬新な視点の企画展を開催。左から「なんなの? A-POC -Miyake Issey + Fujiwara Dai」展、「ブラウン展 ―形を超えたデザイン」
石橋 その通りですね。展覧会は雑誌とは違い「デザインを体感する」という意味でとても重要です。日本は「失われた30年」と言われていますが、デザインは紆余曲折を乗り越え継承され、若者たちが新たなデザインを生み出しつつある状況なのだと思います。
ー AXISといえばAXIS誌も外せません。私も編集部員の一人でありましたが、当時石橋さんは編集会議に出席され、「新しいデザインの時代へ」という連載コラムを担当し、「企業文化と創造性」というシリーズでは大企業の社長へのインタビュアーも務めておられました。
石橋 社長インタビューはとてもいい勉強になりました。みなさん直接デザインに関わることはなかったでしょうが、こちらの設問に真剣に回答してくださいました。中にはメモを用意されて確認しながらお話してくださった社長もいらっしゃいました。
ー AXIS誌5号(1982年10月発行)の石橋さんのコラムでは「ものの価値とは」をテーマで執筆されていて「今や心の問題である。責任ある実践者としてのデザイナーは、今まさにその仕事の社会的、文化的な意義を問われ始めていることを、はっきりと自覚せねばならない時代になってきるのではないだろうか」と結んでいますが、40年以上も前のメッセージの本質が何も変わっていないなあと思いました。
石橋 AXIS誌は啓蒙の手段、特にデザインがビジネスにおいていかに重要な経営資源なのかを伝える手段として効果があったと思います。先述の社長インタビューのシリーズだけでなく企業デザインの特集を組み、企業とデザインの在り方を重要テーマとしたことは良かったと思います。
ー さて、話を展開しまして、創業から15年目の1996年頃はAXISの変革期だったと思います。それまでのデザイン普及を目的とした運動体から、自社でコンサルティングからデザイン開発までを手がけるデザインカンパニーとして第二の創業を実現されました。その背景は?
石橋 ご指摘の通り創業から15年ほどはデザイン啓蒙活動が主体でしたが、1990年代に入って時代が変わり、一方でAXISの実績やブランドが認知されるようになっていました。そこで1996年にマーケティングを得意とするマーケットデザイン研究所(MDI)と合併してコンサルティング事業を強化し、1998年にブリヂストンのデザインセンターを起源とする飯倉総合研究所と合併して、マーケティング、コンサルティングからデザイン開発まで事業を拡大しました。私がアメリカから帰国した頃にイメージしていたデザインカンパニーがAXISを中心に実現されたのです。
ー そうして創業から45年を迎え、AXISは今もデザイン界の軸として頑張っていますね。
石橋 本当に40年以上がたってしまいましたね。よくぞ、ここまで来たなあと思います。特にAXIS誌はデジタルの普及でメディアが劇的に変わり、最近はバイマンスリーから季刊に戻しましたがネットにも力を入れメンバーシップ制を導入して、紙メディアとネットを使いこなしながら頑張っています。
アートの世界に新たにデザインの地平を切り開く
ー さて、この度は「デザインアーカイブ調査」ということでお話を伺っていますが、現在、石橋さんはアーティゾン美術館の運営母体である石橋財団の理事長であり、ブリヂストン美術館からアーティゾン美術館への大改革を実行されました。その背景をお聞かせください。
石橋 ブリヂストンやAXISのときと同じで、時代の変化を感じていたことが第一です。美術館として時代に合わせてアップデートしていかなければならないと。ブリヂストン美術館は知名度が高かったし印象派と近代日本洋画のコレクションで知られた存在でしたが、そこに胡坐をかいていてはいけない。自ら能動的に働きかけていくことが重要だし、特に若い世代の方々に興味をもっていただくような美術館に変えていかなければなりません。そんなときに美術館が入っていた京橋のブリヂストン本社ビルの建て替えが決定したのです。2011年に東日本大震災があって建物にダメージがあったわけではないのですが、竣工から60年以上が過ぎていたことが決定打となりました。その際、美術館を京橋から他所へ移動させることも検討しましたが、創設者である石橋正二郎はニューヨーク近代美術館(MoMA)を参考に誰もがいつでも気軽に立ち寄れる都市型美術館を志向していたので、その精神を踏襲しました。
ー 準備からオープンまで4年近くをかけていますね。
石橋 2015年に旧ビルを取り壊し4年の準備と建設期間を経て、2019年に建物は竣工し、2020年1月に美術館を再オープンしました。建物の設計は日建設計を中心に進め、もっとも重要な美術館の中身についてはデザインの造詣も深い田畑多嘉司さんにAXISから移動してもらい、企画段階では国内外の美術館のリサーチや有識者インタビューを行いながらコンセプトを固めていきました。私自身は基本構想を持っていましたが客観的に検証する必要を感じていたのです。途中からAXISのクリエイティブメンバーにも参加してもらって検討を重ね、新美術館のコンセプトは「創造の体感」に決定し、館名もブリヂストン美術館からアーティゾン美術館へ変えることにしました。アーティゾンとは「ART(アート)」と「HORIZON(地平)」を合わせた造語ですが、この言葉が表すような芸術の新たな可能性を探り、体感できる場所でありたいという願いを込めています。
ー 館名の変更は石橋財団の理事長である石橋さんにしかできなかったことだと思います。その構想は石橋さんがブリヂストンやAXISで実践してきたことにも通底していますね。
石橋 そうですね、CIやAXISでの経験を通して、内側が変わってこそ外側も変わることができるとわかっていたので、今回もその手法を応用しました。
ー 具体的には?
石橋 ブリヂストンのような企業の場合は社員の意識が変わることがもっとも重要で、人事部との協働が欠かせません。しかし美術館の場合は所蔵作品が美術館のイメージを決定するという一面があります。ご存じのようにブリヂストン美術館は印象派と日本近代洋画で認知されていましたが、これから若い人たちにアピールするためには現代美術のような新しい傾向の作品収集にも取り組まなければならないと考えました。しかしブリヂストンのCI導入で抵抗があったように、今回もコレクションの幅を拡大することに対して批判的な意見がありました。しかし踏みとどまっていては取り残されるだけです。時代とともに前進していくしかないのです。
ー 石橋さんの意志はコレクションだけでなく、展覧会でも示されるように感じます。
石橋 2020年にアーティゾン美術館の開館記念展は「見えてくる光景 コレクションの現在地」と題し、当館の選りすぐりのコレクションを中心とした企画でしたが、まもなくコロナパンデミックが発生して自粛生活が続きました。ようやく落ち着いた2023年アフターコロナで開催した展覧会「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」は、コンセプトである「創造の体感」を味わっていただける企画になったと自負しています。後期印象派のセザンヌからフォーヴィスム、キュビスムを経て現代アートまで当館のコレクションを中心に250点余りを展示し、20世紀以降のアートを総観する内容で大きな話題になり、SNSなどの新しいツールも活かしながら、新しいお客様に来ていただくことができました。まさにブリヂストン美術館からアーティゾン美術館への変貌ぶりを見ていただく好機になったと思います。


アーティゾン美術館では伝統的な美術展だけでなく、コレクションと現代美術家の共演シリーズ「ジャム・セッション」、デザイン的視座にたった企画展など、多彩なテーマに取り組んでいる。開館記念展(左上)、ジャム・セッション鴻池朋子展(右上)、「ABSTRACTION」展(左下)、モネ展(右下)
ー 美術館の中身と並行して器としての建物、空間デザインも進めていたのですね。
石橋 ロケーションは銀座通りと八重洲通りが交差するとても恵まれた場所です。最初に空間に対するクライテリアをまとめ、それに沿ってデザインに落とし込んで行きました。その第一がエントランスで、旧美術館の入り口は八重洲通りの奥側にあってわかりづらかったので、新美術館は銀座通に面して建物の正面に設け、地面をフラットにしてアクセシビリティを高め、さらに透明なガラス張りして入りやすくしました。お客様は開放感に溢れた明るいエントランスに入っていただくと正面のエスカレーターに乗って自然に展示室へと導かれます。またエントランスの奥には誰もがすごせる心地よいカフェがあり、おいしいお茶や料理を楽しんでいただけます。カフェの大きな窓は全開して隣のTODA BUILDINGとパブリックスペースを共有して複合文化エリア「京橋彩区(さいく)」を形成します。私たちは東京駅から日本橋、京橋、そして銀座に広がる人々の回遊性と都市美を意識し、アーティゾン美術館が東京という都市における拠点となることを目指したのです。

左から、大きな窓(右側)を開くと複合文化エリア「京橋彩区(さいく)」を形成する1階エントランス、展示に誘導する明るい開放的な3階メインロビー
ー AXISや美術館のような施設は常に都市に開かれ、景観まで配慮しなければならない。先ほどデザインのクライテリアを定めたとおっしゃっていましたが、もう少し具体的にお話いただけますか?
石橋 美術館の空間デザインはコンペの結果、若いデザイナーユニットであるトネリコに依頼しました。最初に彼らから要望はありますかと尋ねられました。私はデザイナーのクリエイティビティに期待して特にはなかったのですが、アーティゾン美術館のエントランスホールはかつてブリヂストンのロビーとショールームがあった場所で、倉俣史朗さんのデザインであり、以前のショーウインドウは印象的な斜めの目地が入った黒い壁であったことをお話しました。すると彼らはそれらをモティーフにして、1階のエントランスの壁面は黒御影石を使い、床には白い大理石のラインを象嵌したテラゾータイルを敷き詰めました。テラゾーは倉俣さんの「スターピース」を手がけた職人さんが制作してくれたものです。
ー 6階展示室ロビーには倉俣さんの貴重な椅子が置かれていていますね。倉俣作品をコレクションしている美術館は数あれども、実際に着席できるのはここだけでしょう。
石橋 倉俣さんの「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」や「半月型のガラスのベンチ」など、実際に座っていただけるのは当館だけ、まさに「創造の体感」です。他にも倉俣さんにブリヂストンのロビーとショールームのためにデザインしていただいたソファも大切に保管してあって、今回リファインしてミュージアムファニチャーとして使っています。


6階展示室ロビーと新たな環境を得た倉俣作品たち、順に「ソファ」、「半月型の硝子のベンチ」、「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」
石橋 ブリヂストンのロビーのエレベータホールには、倉俣さんの友人で現代作家の田中信太郎さんの作品があったのですが、それはアーティゾン美術館の6階展示室ロビーに倉俣作品とともに展示しています。美術館への移動に際しては、田中さんのアイデアで白い大理石壁面の背面にLEDを仕込み作品全体が浮き上がって見えるよう変更しました。田中さんは体調がすぐれないなか大理石からの光の透過具合を熱心に決めてくださったのですが、完成を間近にして亡くなられました。とても残念でした。
ー 6階展示室ロビーは田中さんと倉俣さんという、まさにアートとデザインが融合した、アーティゾン美術館を象徴するスペースですね。
石橋 倉俣さんはかつて一般の方々に見られることがないブリヂストン本社のショールームにもすばらしいデザインを施してくださいました。私はつねづねもったいないなあと感じていたので、美術館の再建に際して倉俣デザインの要素を多く取り入れました。デザインが好きな方にとっては倉俣オマージュの発見も楽しんでいただけると思います。
ー インテリア以外にも多くのデザイナーが参加していますね。サイン計画は廣村正彰さんで、極細のLEDを使った「スリットライト」によるサインやピクトグラムのデザインです。他に4階の展示ケースのライティングは美術館照明設計に多くの実績のある豊久将三さんによるものです。石橋さんが美術館のデザインにこだわるのは当然かと思いますが、その背景に何があるのでしょうか?


アーティゾン美術館には多くのクリエイターが関わっている。トネリコのミュージアムファニチャー(上)、廣村によるサイン(左下)、豊久による4階展示ケースのライティング(右下)
石橋 快適性の実現ですね。さまざまな美術館を訪問してみると、空間が快適で居心地が良いところというのが意外に少ない。歴史的に価値のある建物であっても、美術館としての使い勝手という点で学芸員が苦労しているなあと見受けられることは多いです。そんななか、私たちは幸運にもゼロから出発できるのだから、過去に縛られることなくやるべきことをやろうということです。
誰もがいつでも気軽にアートに触れ楽しめる場所を実現するために、目に見えない安全性や快適性もこだわりました。例えば、展示室はフローリングの5ミリの目地から空気を循環させる置換空調システムを採用し、照明は1機種であらゆる作品を最適に照らし無線制御できるLEDスポットライトをヤマギワと共同開発、そして天井は展示の自由度を妨げないグリッド方式となっています。また建物は免振構造を導入し、水害対策も徹底しています。
ー 美術館としての精度の高さを感じます。そう言えば、アーティストの鴻池朋子さんは石橋財団の組織図をご覧になって、デザインが理事長に直結していることに驚いた、これほどデザインにこだわっている美術館を他に知らないと語っていました。印刷物やミュージアムグッズ、カフェなどは美術館の精度を補完する重要要素ですね。
石橋 当館は「空間とともに楽しむ美術館」をコンセプトにしていますから、作品、空間からグッズやカフェのメニューまで、お客様に満足いただくクオリティにはこだわっています。意識したわけではありませんが、いわゆる体験型になったのだろうと思います。


美術館のブランディングの一環として美術館の空間、カタログなどの印刷物、ミュージアムグッズ、カフェのインテリアや小物まで、一貫したデザインディレクションが実施されている。 カフェ(左上)、ミュージアムショップ(右上)、展覧会と連動したオリジナルグッズ(左下)
ー 美術館の精度ということでは、美術館のバックヤードである石橋財団アートリサーチセンターの整備もすばらしいですね。
石橋 既存のコレクションを安全に保管し、新しいコレクションのための収蔵庫も必要でした。多発する災害に備えて、リスク分散の視点から「石橋財団アートリサーチセンター」を整備しました。そしてせっかく新しい施設をつくるのなら調査研究、修復、ライブラリー、レクチャースペースなどの機能も設けて、アートリサーチセンターというかたちになったわけです。収蔵作品もすべてアドレス制を導入して、iPadひとつで管理できるシステムを構築しています。
また、2つの施設ができたことで作品の移動が頻繁になるため、運搬用のクレートも開発しました。普通は運搬のたびに木箱をつくって終わったら破棄していたのですが、サステナブルな時代には合わない。オリジナルのクレートは作品のサイズによって中を区切ることができ、空気も密閉状態に保てるので作品への負担を軽減できます。また独自にカーボンニュートラルのためのプロジェクトを立ち上げ、アートリサーチセンターでは屋上全体に太陽光発電パネルを設置し、現在、美術館とともに再生エネルギー化を100パーセント達成できています。このように、目には見えないけど地道な部分でいろいろなチャレンジをしています。
ー そういえば、70年から80年代にかけてデミング賞という総合品質管理を対象とした賞がありましたが、石橋さんの企業人としての視点が美術館にも応用されていると感じました。
石橋 たしかに、「美術館運営から美術館経営へ」というビジネスモデルと表現したほうが適しているかもしれませんね。美術館のような芸術分野においても、ビジネスオリエンティッドということではなくて、今ある資本や資源をどう活用していくかという発想は重要です。例えば「企業は社会的な存在であるべき」と言われて久しいですが、美術館はすでに社会に溶け込んだ存在として、その役割を担う責任があります。言うなれば「公益に資する」ことを運営の要として、その永続性を確保することは美術館事業の根幹ではないかと思います。そしてそれを実現するためには諸課題をマネージしていく発想がなければならないのですが、それはまさに経営と同じなのです。
デザインミュージアムの可能性
ー アーティゾン美術館は名称の通り、これからアートの新しい地平を探っていかれることと思います。その現れとして最近エットレ・ソットサスと倉俣史朗の作品をコレクションされていると聞きました。今後はデザインまで領域を拡大されるのでしょうか?
石橋 当館では印象派から現代アートまでコレクションを広げつつあり、その延長線上にデザインがあります。また最近は、アートとデザインを区別しない人たちも増えていると感じています。私たちはデザインをどう位置付けるべきかについて専門家の方々に意見を聞く機会もありますが、逆に「アーティゾン美術館はどう考えているの?」と質問を受けて驚いたこともありました。私がその世界にいたことも理由のひとつでしょうが、当館としてインダストリアルデザインまで広げることは難しいし、工芸やクラフトも違うだろうと考えています。そうしたなかで私たちが扱うべきデザインを突き詰めていったときに、まさにソットサスさんと倉俣さんの作品がアートとデザインの領域にまたがる好例ではないかと考えました。ソットサス作品は3年近く調査を進め、奇しくも1981年にAXISビルで展示した「メンフィス」のヴィンテージ作品を中心にコレクションを始めています。一方の倉俣さんは長い交友がある倉俣美恵子さんを通じてクラマタデザイン事務所が所蔵する作品、図面や写真、スケッチ、蔵書などがコレクションに加わることになりました。お二人とも「メンフィス」に参加し友人関係にあったことから、ご縁を再確認しているところです。

メンフィスにおけるソットサスの代表作「カールトン」(左)と「カサブランカ」(右)。
ー 日本ではデザインミュージアムやデザインアーカイブに対していろいろな動きがありますが、石橋さんはどのようにお考えですか?
石橋 私もそのような話を聞いています。ただ、デザインミュージアムやその運営組織をつくるとなると生半可な覚悟ではできません。それほど重い課題だと思います。
ー すでに美術館を運営されている立場で、デザインミュージアムについてどのようにお考えですか?
石橋 私は、デザインミュージアムは基本的には国が主体となるべきだと考えています。と言うのは、戦後から今まで多くの企業が優れた製品を製造し、その結果、日本は国力を高めてきたわけです。その効用はマーケティングやアドバタイジングへと波及し、グラフィックやパッケージ、映像やインテリアデザインも活気づけ、多くのデザイナーたちに活躍の場がもたらされた。まさにデザインが国の繁栄を支えてきたのだから、国として保管、記録、広報していくべきです。
しかし実際には国が動くとは考えにくい。三宅一生さんとお話をしたことがありますが、あの三宅さんをもってしても国を動かすことが困難だったわけです。それならどうすべきか? まずデザイナーやクリエイター自らが運営母体を形成することが第一歩ではないでしょうか。あるいはデザイン団体が団結してそうした動きをおしていくというアプローチもあるかもしれない。90年代頃までは旧通産省の外郭団体だった日本産業デザイン振興会(現・日本デザイン振興会)などがそうした役割を果たすのかなあとイメージしていました。
ー 海外にはロンドンのデザインミュージアム、ニューヨークのMoMA、香港のM+など、参考にすべき好例があるのに、国内でなかなか進まないことが歯がゆいです。美術館と言えば、石橋財団創設者の石橋正二郎さんは竹橋の東京国立近代美術館やベネツィア・ビエンナーレ日本館の建物を寄贈された。芸術・文化のパトロネージュを実践されています。
石橋 正二郎は個人コレクションを死蔵せずに「世の人々の楽しみと幸福の為に」と考え、戦後1952年にブリヂストン美術館をプライベートミュージアムとしていち早くオープンしました。また、父、幹一郎も戦前から戦後にかけての美術を収集していて現在は石橋財団が所蔵しています。この資産を継承、発展させたまさに「バージョン1.0」が現在のアーティゾン美術館です。今後も「バージョン2.0」へと進化させながら、私たちなりのやり方でデザイン領域をも包括する美術館を目指していきたいと考えます。
ー 本日は石橋さんのお話をお聞きでてきてとても有意義でした。これからの石橋財団、アーティゾン美術館そしてAXISに期待したいと思います。ありがとうございました。