日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

横尾忠則

美術家

 

インタビュー:2023年2月9日 10:00~12:00
場所:横尾忠則氏アトリエ
取材先:横尾忠則さん
インタビュアー:久保田啓子、関 康子
ライティング:関 康子

PROFILE

プロフィール

横尾忠則 よこお ただのり

1936 兵庫県多可郡西脇町生まれ
1960 日本デザインセンター入社(~64)
1964 「スタジオ・イルフィル」を結成 (翌年解散)
1965 グラフィックデザイン展「ペルソナ」(東京 銀座)
   第11回毎日産業デザイン賞受賞
1968 「ワード・アンド・イメージ展」(ニューヨーク近代美術館)
1970 日本万国博覧会「せんい館」のパヴィリオンをデザイン
1972 個展(ニューヨーク近代美術館)
1973 東京ADC最高賞受賞
1975 第20回毎日産業デザイン賞受賞
1981 画家宣言
1984 ベルギー国立20世紀バレエ団(モーリス・ベジャール主宰)、
   ミラノ・スカラ座公演「ディオニソス」の舞台美術担当
1987 個展(西武美術館)
1994 「戦後日本の前衛美術展」
   (横浜市美術館、グッゲンハイム美術館ソーホー、NY)
   「日本のデザイン展」(フィラデルフィア美術館)
1995 第36回毎日芸術賞受賞
2000 「MoMA 1980年以降の現代美術展」(ニューヨーク近代美術館)
   ニューヨークADC殿堂入り
2001 紫綬褒章受章
2006 個展(カルティエ現代美術館、パリ)
2008 個展(世田谷美術館、兵庫県立美術館)
2009 個展(金沢21世紀美術館)
2011 旭日小綬章受賞
   朝日賞受賞
2012 横尾忠則現代美術館開館 神戸市
2014 「ポスト・ピカソ展」(ピカソ美術館、バルセロナ)
   山名賞受賞
2015 第27回高松宮殿下記念世界文化賞受賞
2020 東京都名誉都民顕彰
2021 個展(東京都現代美術館)
2023 芸術院会員
   「横尾忠則 寒山百得展」(東京国立博物館)

横尾忠則

Description

概要

1981年、横尾忠則は輝かしい業績を捨てて、デザイナーからアーティストへの転身を宣言した。当時の日本は、戦後の経済復興を遂げて人々の生活志向の多様化とともに消費社会へと変貌しつつある時期でもあった。デザイン界もポストモダニズムが大きな話題となり、デザインにはアート性や他製品との差別化が求められるようになった。横尾忠則のアーティスト宣言は、アート対デザイン、アーティスト対デザイナーという永遠のテーマに対して自ら行動し、探求することの表明でもあったのだ。
2023年2月、このインタビューのために横尾のアトリエを訪問した。横尾は日当たりのよい窓際のソファーに腰掛け、「耳がほとんど聞こえないから」と言って、私たちに割りばしに輪ゴムで括ったお手製のマイクを渡してくれた。その人物からは、あれだけのパワフルな作品を生み出し続ける芸術家という印象はなかった。しかしインタビューを始めると、展覧会のための新作100点をすでに描き上げ、連載コラムの原稿を朝食前に終わらせたという表現者の姿が少しずつ現れた。2時間弱のインタビューで感じたことは、「横尾さんにとって、創造とは呼吸と同じように自然なこと。誰かのためにとか、社会をよりよくしようとかいう思いを超えて、ただ純粋に創造のために創造しているのだ」ということ。
デザインの世界でも、仕事以外にクライアントに支配されない自由表現の場を持つデザイナーは多い。しかし横尾は、三島由紀夫をもって「横尾は無計画だからこわい」と言わしめたように、後先のことは何も考えずにアーティストに転身してしまった。そのイノセントさと行動力!! そんな予想不可能な横尾が生み出す空前絶後な表現だからこそ、息苦しい現代に生きる私たちをひきつけて離さないのだ。
ここでは、その貴重な作品や資料などのアーカイブに加え、横尾ワールドの魅力の源流について、横尾忠則さん本人と、横尾忠則現代美術館の学芸員の山本淳夫さんと平林 恵さんに伺った。

Masterpiece

代表作

デザイン

ポスター「京都市交響楽団」京都勤労音楽協会(1962)
ポスター「ペギー葉山リサイタル/春日八郎艶歌を歌う」京都勤労音楽協会(1964)
ポスター「Tadanori Yokoo」 自主制作 (1965)
ポスター「腰巻お仙」劇団状況劇場(1966)
ポスター「ジョン・シルバー」劇団状況劇場(1967)
ポスター「毛皮のマリー」天井桟敷(1967)
ポスター「新宿泥棒日記」創造社(1968)
ポスター「新網走番外地」東映(1969)
日本万国博覧会「せんい館」パヴィリオン・デザイン(1970) 
雑誌表紙『少年マガジン』講談社(1970) 
レコードジャケット、サンタナ『ロータスの伝説』
  ソニーミュージックジャパンインターナショナル(1974)
小説挿絵「幻花」東京新聞(1974~1975)
レコードジャケット、マイルス・デイヴィス『Agharta』CBSソニー(1974)
雑誌『流行通信』アートディレクション (1980)
ポスター『Glay』アンリミテッド・レコード(1998)
ポスター「エチゴビールMillenium Beer」上原麦酒(2000)
ボトルデザイン「エチゴビール」上原麦酒(2000)
車両デザイン「JR加古川線ラッピング車両」JR西日本(2004~2011)
ポスター「YOKOO MANIARISM Vol.1」横尾忠則現代美術館(2016)
ポスター「横尾忠則 原郷の森」横尾忠則現代美術館(2023)

 

アート

「ピンクガール」シリーズ 1966~
「温泉シリーズ」2005~(銭湯シリーズは2004〜)
「Y字路」シリーズ 2000~
「寒山拾得」シリーズ 2019~

 

著書

『インドへ』文藝春秋 (1977)
『コブナ少年―横尾忠則10代の自伝』文藝春秋(2004)
『隠居宣言』平凡社(2008)
『横尾忠則全ポスター』国書刊行会(2010)
『横尾忠則全装幀集』パイインターナショナル(2013)
『ぼくなりの遊び方、行き方:横尾忠則自伝』文藝春秋(2015)
『言葉を離れる』講談社(2015)
『タマ、帰っておいで』講談社(2020)
『横尾忠則秘宝創作日記』文藝春秋(2020)
『原郷の森』文藝春秋 (2022)  その他

横尾忠則作品

Interview 1

インタビュー 1

自分が楽しむというのが僕の基本。
世の中から遊びがなくなってきてとても寂しい

横尾忠則現代美術館ができるまで

 今秋、上野の国立博物館で開催される「横尾忠則 寒山百得」展の制作中にお時間いただきありがとうございます。

 

横尾 100点すでに描き終わっています。最後の2点だけ加筆したいのでアトリエに残してありますが、それ以外はすでに送っています。

 

 展覧会について後ほど詳しくお聞きするとして、まず横尾さんのアーカイブについて伺いたく。先日(2023年1月)、神戸の横尾忠則現代美術館(以下Y+T MOCA)に行き、規模の大きさと内容の充実ぶりに驚きました。美術館設立の経緯をお聞かせください。

 

横尾 信じられないような出来事です。僕は絵画作品を東京で保管していましたが倉庫代がとても高い。そこで出身地である兵庫県辺りだったらもっと安いだろうと、兵庫県立美術館の知人に相談しました。それなら県が倉庫を持っているから知事さんに相談してみたらという話になりまして、思いきって知事さんに電話をしたんです。そのときは倉庫の話などしないで、ご相談をしたいのだと。そしたら、とにかく一度お会いしましょうということになって、当時の井戸敏三知事をお訪ねしたら「倉庫を探すよりも美術館をつくったらいかがか、倉庫問題も解決するでしょう」というご提案をいただいたんです。もちろん、最初は本気にしていなかったんです。だって美術館をつくるって大変なことでしょう。第一僕自身が美術館をつくるなんて大それたことは考えていなかったんだから。ところがプロジェクトは動き出して、時間は少々かかりましたが2011年に僕の作品や資料を寄贈・寄託することが決まって、2012年に美術館が開館した。

 

 「瓢箪から駒!」ではなく、「倉庫から美術館!」という大転換だったんですね。でももし美術館ができてなかったら、横尾さんは作品や資料をどうされるおつもりだったのですか?

 

横尾 最後の最後は今まで展覧会を開いてくれた美術館に小分けにして寄贈すればいいや、というくらいにしか考えていませんでした。

 

 時間はかかったにしても、すばらしい展開でしたね。偶然だけでこんなことが起こるのでしょうか?

 

横尾 生まれ育ったのが兵庫県の西脇市だったこと、若い頃神戸新聞社に勤めていたこととか関係しているんだろうか。それに旧兵庫県立美術館(設計、村野藤吾)のリニューアル計画と時期がうまく重なっていたことが幸運でした。どちらにしても美術館という事業は一種の政治だし、知事の一存で決まる問題ではなさそうだから、まさか本当にできるなんて考えていなかった。夢というか奇跡のような話です。

 

 普通は美術館をつくってほしいと本人が積極的に動かないとできません。動いたところでできないことがほとんどです。

 

横尾 本当に。作品から資料まで預かってもらって、アーカイブも整備してくれるなんて予想もしていなかった。もし僕が美術館をつくりたいと考えたとしたら、自分が動かないといけません。でも僕には政治力などないし、いろんな人を相手にするなんて、そんなことできません。そう考えるとY+T MOCAは僕が前面で動かなかったからこそ、いいかたちで進んだのではないかと思うんです。

 

 ちょうど10周年記念展「横尾忠則 満満腹腹満腹」(以下満腹)が開催されていましたが、老若男女たくさんの人が見学していてとてもいい感じでした。

 

横尾 個人の美術館だから入場者数をあまり気にしていないけど、開館10年経って広く認知されるようになって、外国の人たちもたくさん来るようで。

 

 過去に開催された30展をぎゅっと凝縮した見ごたえのある展覧会でしたが、横尾さんは企画に参加されるのですか?

 

横尾 基本的には学芸員にお任せしています。特にコロナ以降は向こうに行くこともままなりませんでしたから。とはいえ開館当初は学芸員の人たちがとてもまじめで、僕はもっと遊びなさい、まじめすぎるとおもしろい展覧会ができないよと言い続けていました。そしたら最近では遊んでくれるようになって、一般の見学者も楽しんでくれて反応も良いようです。そんなことで僕の出番はどんどんなくなっています。

 

 運営は学芸員主導なんですね。

 

横尾 そう。その方がおもしろい展覧会ができます。たまには僕から「これやろう」と企画から参加することもありますが、今は学芸員の方々の主体性にお任せしています。第一、僕が主導権を持ってしまうと、みんながそれに従わざるを得なくなるでしょう。

 

 ご自身のアーカイブの整備について要望をお伝えになるんですか?

 

横尾 アーカイブのことは詳しくないので、学芸員に直接聞いてください。ただすでに作品や資料の多くをY+T MOCAに送っているし、僕が死んだら今アトリエにあるものもあちらに寄贈することになっています。僕がわかっていることはそのくらいです。 美術館の創設もそうですがアーカイブについても、僕はああしてほしいこうしてほしいという要望や欲求はありません。というか昔からすべてに対してそうでした。できたらできればいいし、できなければそれもよしということです。僕はそんな気持ちでいるんだけど、周りがどんどん進めてくれるから不思議です。

 

 「横尾の法則」ですね。

 

横尾 でもね、仮に僕がああしてほしいこうしてほしいと要求したとすると相手は構えてしまうでしょ。そうでないからこそ、周りの人たちがいろんなお話を持ってきてくれるのかなあと思います。本当に不思議なんです。瀬戸内海の豊島にある「豊島横尾館」もそうでした。ベネッセからお話をいただいて、僕がグズグズしていたのにもかかわらず開館しました。Y+T MOCAも同じです。これって何というか一種の自然の法則ではないかな。

 

 横尾さんのその独特の資質は生まれながらなのですか?

 

横尾 僕の生い立ちにあるように思います。僕は2歳で親戚の家に養子に出されました。養父母はすでに50歳前後のおじいさんとおばあさんで僕を溺愛してくれました。とても大事にされて着替えも食事も何もかもやってくれるんです。そんな状況のまま大人になったので幼児性が抜けません。能動的に行動するより、受動的に与えられた状況や環境に従った方が、余計な努力をせずに、運命にまかせた方が楽だと思う。そんな習慣が、いつの間にか身についたんですね。

 

 そのお話は自伝的著書『コブナ少年』(文藝春秋)に詳しいですね。横尾さんの生い立ちや少年時代、美術との出会い、グラフィックデザイナーへの一歩を踏み出た背景、そして東京を目指すまでが生き生きと再現されていました。

 

 

アートとデザイン

 

 「できたらできればいいし、できなければそれもよし」と言うことですが、それにしても、アーティストは欲望や自我があるからこそ、表現活動ができるのではないですか?

 

横尾 欲望と言うよりも、僕は創りたいものを生み出しているにすぎません。作品ができてしまったらその後のことはどうでもいいのです。だから美術館や周りの人が何かをやりたかったらやっていいし、やりたくなければやらなくていいという感じで、人任せなのです。ずいぶん昔、僕のこうした態度を見て、グラフィックデザイナーの田中一光さんから「君はどうでもいいやという精神が強すぎる、東京では何事にも白黒はっきりつけないと生きていけないよ」と言われたことがあります。一光さんは古都の奈良県の出身だからご自身の伝統を重んじる体験を通して僕にアドバイスしてくれたのでしょうね。
確かに、世の中には自我を突き抜けて、何かに対して抵抗したり自己主張する人もいます。それはその人の生き方だと思うんです。僕の運命はたぶん生まれる前から「宿命」として定められているので、何かに乗っかってしまうほうが楽じゃないかというものなんです。一光さんの言葉を借りれば「どうでもいいや」という関西のラテン系の気質が僕の生き方をつくってきたとも言えます。

 

 とは言え、横尾さんは出会ったさまざまな人々から影響を受けておられるのですか? 特に20代に出会ったデザイン界の田中一光さん、亀倉雄策さん、宇野亜喜良さん、和田誠さん、篠山紀信さん、演劇界の寺山修司さん、唐十郎さんや土方巽さん、文学の三島由紀夫さんや瀬戸内寂聴さん、柴田錬三郎さんや高橋睦郎さん、俳優の高倉健さんや浅丘ルリ子さん、海外のアーティストや音楽家など、その時代のトップランナーから。

 

横尾 もちろんです。ただ彼らとの付き合いも成り行きに任せていました。お付き合いするなかで白黒はっきりさせなかったことで良好な関係を続けることができたように思います。僕にとって曖昧が救いになっていました。

 

 横尾さんは60年代から70年代はグラフィックデザイナーとして活動されていました。デザインという仕事はさまざまな条件やクライアントの要望があり、それらに一つひとつ白黒はっきりさせながらプロセスを進めていきます。そんなデザインの在り方が、横尾さんの活動をデザインからアートにシフトさせる要因になったのでしょうか?

 

横尾 デザインはさまざまな制約と条件をこちらにぶつけてきます。僕はその条件を聞くだけ聞いて100パーセントは従えないけど、何パーセントかは従ってデザインします。それを見たクライアントは、気に入らなかった場合にああしてほしいこうしてほしいと言ってきますよね。その注文に納得できなかったら「この仕事はやめましょう」とご辞退します。と言うのも、相手と議論すること自体に疲れてしまうんです。僕は心のどこかでクライアントを失ってもいいと思っているんです。デザインは向いていません。ある時期からデザインから距離をおいたので今までやってこれているのだと思います。

 

 それは奇跡ですよ。

 

横尾 僕は、僕のデザインやアートを歓迎してくれる人たちだけと仕事をやってきました。1960年代初め、日本デザインセンターでグラフィックデザイナーとして働いていた頃は、こんな僕でも仕事上のトラブルやストレスがありました。でもフリーになってからは気が進まないことはやらなくなって、ストレスからは完全に解放されました。でも多くのデザイナーは僕のように振る舞ったら次の仕事が来ないと考えて、妥協してでも仕事をやり通します。でも僕が思うに、そうやっていると次第に妥協の連鎖運動が始まって自分のやりたいことができなくなる。だから妥協するなら、その仕事からきっぱり足を洗います。

 

 そこで横尾さんは妥協の連鎖運動から脱出を図ったわけですね。

 

横尾 そういう意味では、つまり人生の選択については、僕は一光さんが言う「アートかデザインか、やるかやらないかの白黒ははっきりさせた」のかもしれませんね。

 

 それでも創作を続けておられるのは、世の中が横尾さんを求めている証ですね。

 

横尾 振り返ってみると、僕はデザイナー時代も含めて企業相手、商業ベースの仕事はあまり多くやっていません。劇団や映画関係者、音楽家や作家といった僕を受け入れてくれる相手、一緒におもしろがってくれる相手との仕事が多かったのだなあとあらためて思います。唐さんや寺山さん、三島さんは細かいことは何も言わなかったし、(三島さんはちょっと違ったかな)頼んだらそれでおしまいという感じでした。演劇関係者はお金がなかったから一種のボランティアだったわけだけど、僕にはこっちの方が体も心も健康です。

 

 みなさん、横尾さんを信頼していて「任せた!」ということなのでしょうね。

 

横尾 それほど自信はないけどね。

 

 60年代を象徴する文化的事件として唐十郎さんを中心とした「劇団状況劇場」や寺山修司さんを座長とした「演劇実験室天井桟敷」などアングラ劇団の興隆があげられます。横尾さんは今で言うアートディレクターのような立場で両劇団と深く関わっておられましたした。特にポスターは今や伝説的な存在ですね。

 

横尾 それらはシルクスクリーンで刷っていたんですよ。後に九條今日子さん(天井桟敷の創設メンバー、女優)から聞いた話ですけど、劇団員が渋谷から青山辺りまで電柱や壁にポスターを貼って後で見回ったら全部剥がされてなくなっていたそうです。だから僕のポスターは何の役にも立たなかったと言うんです。でも僕は言い返しましたよ。「誰かがポスターを盗む。その瞬間に演劇が始まっているのよ。それこそまさに演劇ではないの」とね。彼らが目指した演劇はまさにそうしたことでしょう。でも、ポスターが盗まれたことがメディアに取り上げられて、かえってよい宣伝になったんですよ。

 

 あの当時の横尾さんのポスターは今ではアートとして高い評価を受けています。

 

横尾 貧乏劇団だったからギャラはゼロだったけどね。でもそんなことは構わない。「腰巻お仙」とか、あの頃のポスターは美術館や個人のコレクションになっています。そう言えば、『開運!なんでも鑑定団』という番組に出たときには、200万円の値がついていました。でもアメリカのオークションだと1千万円で落札されています。僕には1円も入ってきませんけど、物語としてはおもしろいですよね。

 

 その差は何でしょう?

 

横尾 アメリカやヨーロッパではいいポスターはデザインではなくアートとして捉えられています。そこは日本の土壌とは違って、良いものならデザインやアートという枠踏みなく評価してくれる。でも日本ではポスターの相場はこの程度だろうという暗黙の了解があってそれに従っているのです。一般的な価値基準で決めるのではなく、いい作品ならいくら高額でもいいはずです。それを日本では作品の良し悪しではなく平均価値で定めようとします。

 

 ロートレックとかミュシャもポスターで評価された芸術家ですね。現在はデジタルサイネージなどメディアが多様化して、ポスターは以前のようなインパクトを持ち得なくなっているように感じます。横尾さんはポスターというメディアの意味をどうお考えですか?

 

横尾 1960年代、ポップアートが登場する以前、僕は街中に貼られるポスターはアートよりも社会的な影響力があると考えていたし、デザインというよりも大衆芸術と捉えていました。現代でもパリのような都市では、ポスターは日本の倍のサイズがあって貼る場所もちゃんと確保されている。ポスターが街中のアートとしてしっかり認知されています。ところが日本ではポスターを貼れる場所といえば駅くらいでしょう? 確かに、日本のポスターがあまりにも商業的になってしまったのでアートとしての評価が難しいのも事実です。それは企業の責任もあるけど、アーティストやデザイナーの責任もある。もっと企業と戦い、駅構内は「僕らのギャラリーなのだ」というくらいの気概をもって臨めば、状況は変わってくるかもしれない。クライアントの言いなりになっていたら、ポスターというメディアがどんどん衰退するだろうし、自立性も失われていくでしょう。でもそれ以前にいい作品をつくるべきです。

 

 この状況はどうにかならないものでしょうか。よいアイデアはありませんか?

 

横尾 僕は正面から抵抗したり頑張ったりはしなかったけど、ちょっと視点を変えておもしろいことを考えて実行していましたね。

 

 例えば?

 

横尾 1971年に渋谷の東急百貨店からクリスマスセールの宣伝ポスターを頼まれたことがありました。そこで僕は、真冬に真夏という逆転の発想でタヒチをイメージした「クリスマス・パラダイス」というポスターを何種類かデザインして、さらにフロアごとに違ったものを貼ろうと言いました。これだけだって画期的ですが、同じポスターをさらに渋谷の地下鉄構内にも掲示すること提案したんです。僕のポスターが渋谷をジャックするというイメージです。ところがヌード写真を使ったものがあったので駅には貼れないと言われ、それならばと、僕は駅員さんに黒マジックを渡して気になる部分を塗りつぶしてもらいました。駅員さんが自分の裁量でオッパイやお尻といった気になるところを塗りつぶしてくれた結果、実にユニークなポスターに生まれ変わった。これがまたメディアの注目するところとなって、一種のパフォーミングアートとして大きな話題になって宣伝につながったんです。

 

 ご自身で楽しんでいらっしゃる。

 

横尾 そうです。こんな風にアイデア次第でいくらでもおもしろくできる。自分が楽しむというのが僕の基本です。だけど、現在はどんどん遊びが失われていますね。遊びを許容してくれるクライアントも、遊んでやろうというデザイナーも少なくなってきているでしょう。破天荒な人っていったいどこに行っちゃったんだろう。世の中から遊びがなくなってきてとても寂しいですね。

 

 オランダの歴史家のホイジンガーは著書『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』で、遊びこそが人間の本質であり進化してきた。その起源は「ホモ・ファーデル(作る人)」よりも古いと言っています。人間にとって遊びは根源的なものなのかもしれません。

 

 

知識、教養、知性の外側にいた

 

 1980年にニューヨーク近代美術館で開催された「Pablo Picasso: A Retrospective」展で横尾さんがデザイナーからアーティストに生まれ変わったお話は有名ですが、ピカソは生涯でタブローだけでなく陶芸や彫刻など多彩な表現に挑戦していました。横尾さんは?

 

横尾 僕は自分からはやろうと思わないけど依頼があればやりますよ。舞台美術やレストランのデザイン、大阪万国博覧会ではせんい館のパヴィリオンのデザインもやりましたが、それらが終わったらもっとやろうとは思いません。ところが一つの仕事が終わると連鎖的に広がるんです。さっきも言ったけど、僕は生まれたときから運命が決まっていると考えているので、ある意味で受動的で流れに逆らわないでいるだけなんですけどね。

 

 本当に受け身なのですね。

 

横尾 僕があまりにも受け身だから、向こうがどうにかせなあかんなと思うのかもしれませんね。寺山さんや唐さんが頼んでくれたから演劇のポスターをつくり、モーリス・ベジャールから依頼を受けてミラノ・スカラ座の舞台美術をやり、大島渚監督から依頼されて俳優にもなった。そこからまた新しい話が舞い込んでくるんですが、面倒くさいなあと感じたらどんなにいい話でも断ります。無理してまで目立つ存在になりたいとか、たくさん稼いでやろうとかいう意欲はありません。僕はあまり体が丈夫ではないので、そうしないと健康が守れませんから。無理している人を見ると、気楽にほっておけばよいのになあと思います。

 

 ご本を読むと横尾さんは事故や病気が多くて長期入院を何度もされています。そのような体験を通して、現実世界とは違った精神世界、異次元の世界を行き来するようになったのでしょうか?

 

横尾 そうした世界があるとしたらその世界のシステムがあり、一方に人が生きる現世のシステムがあるのでしょう。むしろ現世のシステムに乗ってしまうとしんどいし、僕はそうならないように注意してきました。

 

 最近、横尾さんは聴力が衰えたり大病されたりと身体的、つまり現世的には以前と比べて不自由になられていると聞いています。そうした変化が創作意欲、表現の主題や手法に影響していますか?

 

横尾 年取るとハンディキャップが増えてきます。僕は音楽家ではないので聴力の衰えはどうにかなりますが、今は腱鞘炎で手が痛いし、目が見えにくくなっています。それならハンディキャップに逆らわない絵を描けばよいと思うんです。例えば、今、僕はまっすぐ線を引けなくてふにゃふにゃとしか描けない。けれどこのふにゃふにゃが今の僕の自然体であり表現なわけです。だったらふにゃふにゃでいいじゃないか、それが自然な状態なら従うまでです。無駄に抵抗しないから作品はどんどん変化する、以前に比べて弱々しくても、それが今の僕の個性なんだからありのままでよいと思っています。

 

 最新の「寒山拾得」シリーズはそのふにゃふにゃが朦朧体という新しい境地を切り開いていらっしゃる。そういえば、「睡蓮」で有名なモネも晩年に視力が落ちてから絵が変わりました。だけど評判や価値は落ちていませんね。

 

横尾 そうです。むしろ晩年のモネの絵は抽象表現の曙と言われていて、睡蓮の一連の絵があったからこそ、20世紀絵画は大きく変わりました。モネのハンディキャップが逆に抽象芸術の先駆けとなったわけで、おもしろいですよね。

 

 この秋、東京国立博物館(以下東博)の展覧会のための「寒山百得」100点を描き上げたとのことですが、そもそも「寒山拾得」をテーマにした背景は何だったのですか?

 

横尾 2年ほど前になりますが、国立新美術館で「古典×現代2020、時空を超える日本のアート」という企画展がありました。8人の現代美術家が過去の名作に呼応した新たな表現を生み出すというもので、僕は美術館側から江戸中期に活躍した絵師である蕭白というお題をいただきました。そこで僕は、蕭白の代表作である「寒山拾得」をオマージュして新作を制作することにしたのです。

 

 そうですか。横尾さんが蕭白を選んだのだと思っていました。

 

横尾 たとえ受け身であっても受けたテーマをどう昇華させるかは僕の自我で、「寒山拾得」ならどんな風に描いてもよいと考えました。何といっても遊びの達人たちですからね。結局、僕自身が寒山拾得になっちゃった(笑)。これを機に「寒山拾得」をテーマに描き始め、2021年、東京都現代美術館の「GENKYO横尾忠則」展で発表しました。その絵を見た東博の学芸員さんが、東博がコレクションしている寒山拾得と僕の絵を合わせた企画展を思いついたというわけです。話は単純です。

 

 アトリエに大作が幾つかありますね。特に扉の近くにある2点は東博のための「寒山百得」ですか? 作風が今までとはだいぶ変化されているようですが。

 

横尾 そうですね。今度の絵は表現が全部違っています。Y+T MOCAで観ていただいたような作品はほとんどありません。その2点はまだ手を加えたいので手元に置いています。そもそも寒山拾得は唐時代の奇行も多いというちょっとおかしい禅僧だから、僕の好き勝手にどんな風に描いてもいいと考えたのです。

 

 周りは、また横尾さんの作風が変わった、新しい境地を開いたと大きな話題になると思いますよ。

 

横尾 わっはは(笑)。そうしてもらいたくないけど、美術関係者はそう捉えるでしょうね。

 

 それにしても、東博と横尾さんの組み合わせは画期的ですね。

 

横尾 日本伝統の粋を集めた東博が僕に声をかけてきたことがユニークだし、東博は現代美術家の展覧会は初めてなんだそうです。

 

 横尾作品はもともと、古典と現代、アートとデザイン、崇高と低俗という境界を越境しているところが魅力です。だからなのかもしれませんね。

 

横尾 境界というか「中間」ね。白黒の間の灰色というか、その間のあいまいさというか、優柔不断なところ。どっちでもいいでという生き方がそのまま絵になっているわけで。 自由というのとちょっと違うのだけど、たいていの人はある「枠」を決めてその中で自由にやろうするけど、僕はもともと枠すらないので何でもいいの。僕は自分の飽きっぽいところ、思いついたらすぐにやるけどすぐに飽きてしまって同じことを続けられないという性格を利用しているわけです。思想も初めっからありません。

 

 でも、日本デザインセンター時代に60年代安保条約反対デモに参加されていませんか?
デザインセンターと言えば、1959年に原弘さん、亀倉雄策さん、田中一光さんを中心にトヨタ自動車、野村證券といった大企業をクライアントに設立されたデザイン会社で、横尾さんも関西から東京にできて憧れて入社された会社でした。

 

横尾 そう、ちょうど1960年に東京で開催された「世界デザイン会議」に触発されたのか、「デザイナーも社会的課題に関わらなければならない、思想を持たなければならない」と、亀倉さんがデザインした鳩の絵のついたプラカードを掲げて銀座通りを行進しました。ところがとんだ危険な状況に巻き込まれて右の親指を骨折してしまい、大変な目にあいました。そんな渦中にあっても僕はどこか他人事のように感じていましたね。

 

 横尾さんの著書や朝日新聞の書評を読むと、優柔不断で思想を持っていない人の文章とは思えません。この落差は何なんでしょうか?

 

横尾 よくわかんないなあ。第一僕は本をあまり読まない。中学時代に江戸川乱歩や南洋一郎の冒険小説を読んだくらいで、40過ぎまで本はほとんど読まなかった。ただ本屋さんで本は買っていました。いつか読むときが来るかもしれないということで。
けれど本を読まなかったことで、知識、教養、知性の外側にいました。でもその外側にはもっと大きな広い世界がある。知識や教養、思想というのは「枠」で囲まれた「範疇」を無意識のうちに形成してしまい、その枠の中でしか考えたり行動したりできなくなるのではないか。僕は「枠」や「範疇」にとらわれることなく、その外側の世界でやってきたと思うんです。

 

 それにしても横尾さんの文章の描写は克明でその記憶力には感嘆します。日記やスケッチなどで日々の記録を残していらっしゃるんですか?

 

横尾 日記やブログは書いているけど、それを参考にはしません。

 

 自伝である『コブナ少年』や『ぼくなりの遊び方、行き方 横尾忠則自伝』(ちくま書房)では、本当に些細なことが昨日のことのように生き生きと描かれています。例えば、日本デザインセンター時代のある日、横尾さんが会議を終えて帰社したらみんながお八つにおはぎを食べていて、甘いものが大好きな横尾さんの分がなくて怒り狂ってしまったといったエピソードとか。

 

横尾 それは僕の中にある成長しない幼児性のなせる業ですよ。だからおはぎを食べられなかっただけで涙が飛び出してきて、相手に殴りかかるなんて、いい大人ができることではない。普通はしないよね。知識や教養の外側にいたからこそです。今思い返すとぞっとするけど。

 

 ということは、やはり記憶されているからなのでは?

 

横尾 いや、記憶ではなくて肉体が覚えているんですよ。記憶とは違うの。記憶というのは知性や教養とか、他人が経験したことを本で読んだり、聞いたり、暗記したりといったことだけど、僕の場合は肉体が覚えているんです。頭で記憶していることとは違うんです。

 

 でも、体から出てくるものにしてはあまりにも豊かで……。

 

横尾 それはね、例えば、子どもが、大人がハッとするような物の本質を突くような言葉を発することがあるでしょう。なぜかというと、子どもは言葉をたくさん知らない、わずかな言葉で言おうとするから物の本質が突ける。ところが大人になるとたくさんの知識や言葉が身についているから、あの言葉とこの言葉を組み合わせようとか、頭が良さそうに表現しようとか余計なことを考える。でも子どもは考えない、直感や感情で言うんですよ。もしも僕の文章がおもしろいと感じてくれるのなら、それは僕が子どもの感情で書いているからです。だから調べたり、確認したりもしないけれど、僕はプロの物書きではないから、編集者は大目に見てくれています。

 

 「満腹」展の会場に、日記が展示されていました。

 

横尾 普段はノートやスケッチブックは持ち歩かないけど、日記は持っていきます。日記の空きスペースにコラージュや簡単なメモは書きますが、それは何か目的があってのことではないです。日記を書いたり、スケッチしたりすること自体が楽しいからやっているのです。将来何かに役立てようとかいう気持ちはない。そのように目的をもってしまうとおもしろくなくなってしまうでしょう。

 

 でも現代は「計画、戦略ありき」です。

 

横尾 そうなんだ。そう考える人は将来を考えて計画を立てて進まないと不安なんでしょうね。僕は将来のことはほとんど考えない。将来、死ぬんだろうなあということくらいで。でも将来を考えてやっている人と、考えないでやっている人では、できてくるものが違っているかもしれないですね。これはいかんともしがたいねえ。

 

 そう言えば、横尾さんが仲良くされていた作家の三島由紀夫さんは、横尾さんとは対照的にきっちり計画を立てて実行される人物と受け取れるんですが、そのお二人はどのようにお付き合いされていたのですか?

 

横尾 そうですね。三島さんはすべての計画を立てて、死ぬことまで白黒はっきりさせた方。三島さんは初めての海外旅行に行くときに、訪問先での分単位のスケジュールを日本で計画して、その通りに実行するような人でした。僕にしてみれば、旅に出たらどんなことが起こるかわからないしハプニングこそがおもしろい。無計画だからこそ旅が楽しいのだと考える。だから三島さんには「横尾君はいつも無計画だからこわい」と言われました。確かに三島さんが万事計画をされていたから用心深い方だったの対し、僕は無計画で不用心。

 

 三島さんは、まるで真逆な横尾さんが放つ磁力にひきつけられてしまったんですね。実際、三島さんは1965年の横尾さんの初個展に高橋睦郎さんといらして、一枚の絵を気に入られた。その後横尾さんから送られたその絵を書斎机の真ん前に掲げられたそうですね。三島さんは横尾さんの自由さに憧れていらしたのかもしれません。

 

横尾 三島さんは口が悪いけど「横尾君のあほさ加減が怖い」とも言っていた。知識と教養がなく、予測不能な君が怖いって。三島さんがすべてを理解して切腹されたのだろうけど、僕は何もわからないうちに切腹してしまう怖さを感じていたのかもしれないですね。三島さんは知性と教養の塊のような方だった。そういう意味では本当に正反対。それから三島さんには「横尾君はアプレゲールだね」とも言われました。でも三島さんこそ「アプレゲール」に憧れていたのだろうけど頭が良すぎてそれができなかった。

 

 最後に横尾さんの日常を教えていただけますか?

 

横尾 6時半から7時に目が覚めて、8時の朝食までにちょっとエッセイを書いて。今日は6枚くらい書いたかなあ。今『神戸っ子』というタウン誌に連載を持っているんです。

 

 作品をつくり続けるために、日々のルーティンはありますか?

 

横尾 ないですね。絵を描くこともバタバタと続けることもあれば、何日も何もしないで過ごすこともあります。最近、知り合いがどんどん亡くなりました。僕もあんまり長生きしたくない。生きている限り絵を描き続けると思うけど、もう飽きているんです。

 

 無欲な人ほど長生きかもしれませんよ。

 

横尾 いやいやそんなに長生きしたくないですよ。でもその欲求が僕を死なせてくれるかも。でも三島さんが横尾はもっと現世にいろよと言っているような気もします。

 

 本日はありがとうございました。2023年の横尾忠則現代美術館、東博、ギンザ・グラフィック・ギャラリーと展覧会や個展もありますね。楽しみにしております。

 

 

 

 

Interview 2

インタビュー 2:2023年3月16日 13:30~15:30
場所:横尾忠則現代美術館
取材先:山本淳夫さん、平林 恵さん
インタビュアー:関 康子
ライティング:関 康子

 

横尾忠則現代美術館 学芸員が語る
横尾忠則とアーカイブ

横尾忠則アーカイブ

 本日は「横尾忠則アーカイブ」についてお聞きしたく、よろしくお願い致します。まず、横尾忠則現代美術館(以下Y+T MOCA)の開館の経緯について伺いたく。

 

山本 本館は2012年11月に開館しましたが、構想はその5、6年前からあったようです。横尾さんは、2004年のJR加古川線のラッピング車両のデザインや、2008年に兵庫県立美術館に巡回した「冒険王・横尾忠則」展の準備のために兵庫県を度々訪問されていて、その際に兵庫県立美術館の学芸員に地元の兵庫県内に適当な倉庫がないか相談されたそうです。そこで知事に直接話してみようということになって、横尾さんと当時の井戸敏三知事の面談が実現し、知事から「美術館を建てたらどうか」と申し出があった。関係各所の役人たちも同席しており突然の発言にみんな驚いたと思いますが、知事の意向を受けて可能性を探ることになったのです。
ところが県は財政再建中で美術館の新規建設は困難だったため、既存の建物の再利用や予算の確保など、予想以上の時間がかかってしまった。このような理由から、現在のY+T MOCAは、2002年に安藤忠雄氏設計の建物に移転した旧兵庫県立近代美術館を大改修した「兵庫県立美術館王子分館 原田の森ギャラリー」の本館、別館、東館、西館のうち、西館を利用しています。この建物は村野藤吾の設計により1982年に竣工したもので地上4階、地下1階で、現在は1階がオープンスタジオ、2、3階が展示室、4階がアーカイブルームとギャラリー、地階を作品の収蔵庫として使っています。

 

 横尾さんも開館まで長い時間がかかったとおっしゃっていましたが、そのような背景があったのですね。山本さんは初期段階から関わっておられたのですか?

 

山本 私は2011年から参加しています。もともと滋賀県立近代美術館の学芸員でしたが、計画がなかなか進まないことにしびれを切らした横尾さんが美術を理解している人間を連れてこいと強く主張されたそうで、当時兵庫県立美術館にいた元上司から打診を受けました。Y+T MOCAはその後も多くの課題を解決しながら、ようやく開館に漕ぎつけることができたのです。

 

 いろいろ大変だったのですね。

 

山本 知事の一声で始まったわけですが、横尾さんと県側が必ずしも同じ方向を向いていたわけではなかったと思います。横尾さんもさんざん待たされて不安だったのでしょう。

 

 現在の収蔵品の総数はどのくらいなのでしょうか?

 

山本 収蔵作品としては、2022年3月時点で、絵画が173点、版画が214点、ポスターが1365点、原画・ドローイングが3点、写真が75点、その他40点、総数1870点となっています。これらとは別に、900点ほどの寄託作品があります。さらにアーカイブとして横尾さん側から700箱以上の資料を受け入れていますが、これらは順次整理している途中で、総数はまだわかっていません。

 

 ウェブサイトを見るとトップメニューに「アーカイブルーム」という項目があり、整理済みのデータが公開されていて、事前に申し込めばアーカイブルームが利用できるようですね。そこでアーカイブ作業についてお聞かせください。

 

山本 横尾さんからの資料の多くは段ボールに入った状態で送られてきます。中身は年代やテーマごとにざっくり分類されていますが、私たちは独自のルールに沿って優先順位をつけて作業を進めています。整理したアーカイブ資料は原則として「原稿」「装幀」「掲載誌」「図録」「その他」の5つに編成しています。具体的な作業は、「アーカイブス基礎資料集」(2015年、大阪大学出版会)を参考に、予算や人員などの状況に応じて進めていて、1)概要調査・原稿記録、2)内容調査、3)構造分析、4)多目的利用などを念頭に置いています。
また、アーカイブ専任のスタッフを中心に、1)現状調査、梱包やファイルごとに中身の概要と現状、点数を記録、撮影する、2)分類・仕分け、箱ごとに制作年と種類などで整理、3)登録と一時保存処置、資料1点ずつに管理番号を振り、埃をとって中性紙などで保護する、4)本撮影とデータベース、印刷物の使用に可能な写真を撮影し、データ化する、5)調書作成、寸法や素材、技法など調査、記録する、6)資料の保存処理、保存、修復を実施し、元箱の状態が悪ければ中性子保存箱に交換する、という手順で進めています。資料は、横尾さんから送られてきたものは「アーカイブ資料」、美術館が独自に購入、受贈されたものは「ライブラリー資料」として分類しています。

 

 気の遠くなるような工程ですね。どのような体制で進めているのですか?

 

山本 Y+T MOCAは常勤の学芸員が3名、嘱託でアーカイブ、保存修復、エデュケーション担当がそれぞれ1人、計6人(23年度からは嘱託が一人減って5人)体制です。嘱託のアーカイブ職員が基本計画を立て、私たち学芸員にアーカイブ作業にあたる日時と進め方を指示します。私たちも日常業務に追われていますが、できる限り彼女の指示に沿って作業にあたっています。

 

平林 最初のころは一つひとつの作業について完璧を目指していましたが、プロセスが多すぎてなかなかはかどらない。そこで目標を「全体把握」に切り替えて作業の効率化・合理化を図り、現在は写真より文字によるデータ化を優先しています。

 

山本 本来であればウェブブラウザから館内のデータベースを検索できるようなシステムを組みたいのですが、予算や時間、人員に限りがあってできていません。とにかく作品や資料と文字(情報)の紐づけを第一に最善の方法を選択しているつもりです。

 

平林 当初は写真撮影を優先させていたので、必要な資料を探すときには何千枚もある画像データを確認するのに、相当の労力を割いていました。今は徐々に文字化されて、さらに私たちの作品や資料に対する知識が豊富になってきたこともあって検索時間も短縮されています。

 

 ウェブサイトでは「アーカイブルーム」のページにある「整理済アーカイブ資料リスト」という項目から誰もが作品リストを検索できるようになっていますね。データベースの構造を簡単に教えていただけますか?

 

山本 データはファイルメーカープロを使用しています。資料が収納されているファイル(あるいは箱)には概要目録(箱番号)、その中身に内容目録(枝番号)をそれぞれ4桁でナンバリングして、数字8桁の管理番号としています。それにタイトル、年月日などの情報を記載します。

 

平林 整理作業は展覧会の出品準備と兼ねることも多く、その際は寸法や素材、状態把握、修復の必要性の有無といった一歩踏み込んだデータを作成します。

 

 アーカイブルームの管理運営についてはどうですか?

 

山本 アーカイブルームは通年で22度、湿度55%、有害な光を発しない照明器具を採用するなどの基本条件は整っており、エアーサンプラーやパッシブインジケーターを使った空気環境測定も定期的に行っています。地震対策も棚の固定化はもちろん、落下防止のために収納物をさらしで巻いて固定するなど、可能な限りの対策を講じています。

 

 事前に申し込めばアーカイブルームを使用し、資料を見ることもできるのですね?

 

山本 事前に見たい資料を明記してウェブサイトから申し込んでいただけば、アーカイブルーム内で見ていただくことが可能です。その際私たちが事前に指定資料を用意して同席します。日程調整が大変ですが、貴重な資料の現物を見ていただくには私たちが立ち会うことが不可欠なので。

 

横尾忠則の資料 横尾忠則の資料

未整理な資料も含め、膨大なスケッチや資料がアーカイブルームで管理される(左)。
膨大な作品や資料のデータ整備は継続中だ(右)。

 

 

山本 はい、地階が作品の収蔵庫になっています。

 

 聞いた話ですが、以前のアーカイブルームはガラス張りで、中の様子を見ることができたそうですね。

 

平林 その通りです。横尾さんから貴重な蔵書や資料をお預かりしており、またアーカイブ資料への興味のある人も多いので、誰もがアーカイブや学芸員の仕事を身近に感じられるように部屋をガラス張りにしていました。ガラス面の内側には展示台があり、資料の展示も行っていました。

 

 今は違っていますね。

 

山本 ある日、横尾さんから自分が持っている芸術家、例えばフランシス・ピカビア、マン・レイ、サルバドール・ダリなどの作品を寄贈したいので新たな展示スペースをつくってほしいと相談を受けました。いろいろ検討したのですがスペースには限りがあり、アーカイブルームに接していた廊下を「コレクションルーム」にリノベーションせざるを得ず、ガラス張りの状態ではなくなりました。

 

 ガラス張りなんて斬新だなあと思いました。とはいっても、アーカイブ専任スタッフがいらして、10年の歳月をかけてここまで整備されていることは本当に素晴らしいことだと思います。

 

横尾忠則の資料

コレクションルームの風景

 

 

 

Y+T MOCAならではの企画展

 

 さて、Y+T MOCAはアーカイブに加えて、斬新な企画展も開催されています。企画展の準備も兼ねてアーカイブ整理を進めていると伺いましたし、そもそも展覧会が大切なアーカイブ発表の場と言えます。現在(2022年3月)開催中の「横尾忠則 満満腹腹満腹」(以下満腹)は過去の企画展を俯瞰したものですね。企画展には横尾さんはどのように関わっておられるのですか?

 

山本 開館当初、横尾さんから一通のファックスが送られてきました。そこには題名だけですがご自身が考えた展覧会の企画案が51ほど列挙されていて、私たちは、横尾さんはこんなことをやりたいのかなあと想像しながら企画していました。

 

 多いときは1年に4つの企画展を実施されていていますね。通常、美術館では一企画に対して3年くらいの準備期間をかけると聞いていますが、こちらはどうなのですか?

 

山本 確かに準備には3年はほしいところですが、本館は1年ほどです。毎年ゴールデンウィーク後に学芸員3人で次年度の企画案をまとめて横尾さんに相談し、方向性が固まった時点から具体化していきます。

 

 準備が短いのは横尾さんの作品を多く所蔵しているメリットですか。

 

山本 作品を所蔵していると言っても外部への出品交渉も多いですし、カタログ制作や広報活動も考えると毎回自転車操業に近いです。

 

平林 他館に作品を貸し出すこともありますし、当館の展覧会にはその時々の横尾さんの興味が反映されることも多く、早くから準備しても直前で変更になることもあるので、短期集中の方が向いています。最近は、信頼関係もできてきたのか、以前よりも任せていただけるようになってきました。

 

 すばらしい。何かきっかけがあったのですか? 

 

山本 2021年に東京都現代美術館で「GENKYO横尾忠則」という過去最大規模の展覧会が開催されました。本館からも作品を200点ほど貸し出したので収蔵庫がスカスカになってしまったんです。だけど企画展はしなければならない。そこで平林が「Curators in Panic~横尾忠則展 学芸員危機一髪」という展覧会を企画しました。苦肉の策で、学芸員3人が収蔵庫に残っている作品を選定してコメント付きで展示したのです。残り物にも可愛い子がいるんだよ、みたいな感じです。そしたら作品や学芸員の存在が身近に感じられると好評をいただき、それまでは学芸員の個性を出さないようにしていたんですが、こんなものもありかと割り切れました。
次展の「横尾忠則の恐怖の館」も美術館全体をお化け屋敷にして、残り少ない作品からグロテスクなものを選んで展示したところ、開館以来2番目の入場者数となりました。どちらもコロナ渦中のために横尾さんはご覧になっていませんが、評判が耳に入って「頑張ってるね」という感じになりました。窮地に立った企画が意外にもあたってしまったわけです。

 

 2020年の「兵庫県立横尾救急病院展」もコロナ禍と重なって大きな話題になりましたね。

 

山本 入院体験豊富な横尾さんだし、兵庫県立病院の移転・統合に伴っていらなくなったベッドや点滴台、シャウカステン(レントゲン・フィルムを見る装置)などの備品を廃棄される前に借りてきて、美術館を病院に見立てて構成しました。ところがオープンが2020年2月でちょうどコロナパンデミックが始まった時期だったので、私たちの予想を超えてシリアスな意味を帯びるようになった。横尾さんは来館できませんでしたが、横尾さんの発案で全員にマスクを付けてもらって記念撮影をしました。当時、100人近くの人間が全員マスクをして記念撮影するなんて、まさに「異様な光景」だったのですが、数カ月後にはそれが日常風景になってしまった。まさに「横尾の予言」が的中したというわけです。

 

 横尾さんにインタビューした際「最近の企画は<遊び>があってよい感じ」とおっしゃってましたよ。

 

山本 それはうれしいです。当初は私たちも、相手があの「横尾忠則」ですから緊張しますし、横尾さんの思いを形にしなければと忖度していた部分もありました。ただ最近ようやく信頼してくださっているのかなと感じています。

 

 他館では絶対にできそうにない展覧会が幾つもありますね。

 

山本 開館間もない2013年の「横尾どうぶつ図鑑 YOKOO‘S YOKOO ZOO」、2016年の「ようこそ!横尾温泉郷」などは当館にしかできない企画だと思いますし、話題にもなりました。前者は神戸市立王子動物園とのコラボレーションで動物の剥製をお借りして横尾作品と組み合わせて展示しました。哲学者の浅田彰さんにもおもしろいと言っていただきました。
後者は兵庫県の城崎温泉旅館組合の協力を得て、卓袱台や座布団などの備品を借りてきて美術館を温泉宿に変貌させるものでした。このとき横尾さんから「温泉といえばソフトクリームでしょ」と言われて、私たちは「何でだ?」という疑問は抱きつつもソフトクリーム型のオブジェを借りてきました。暗闇で大量のソフトクリームが発光する様はなかなか壮観で、格好の撮影スポットとなりました。昨今の「インスタ映え」のはしりだったかもしれません。横尾さんの発想から予想できない出来事が次々と起こって、私たちもハラハラドキドキしながら楽しんでいます。

 

横尾忠則の資料 横尾忠則の資料

横尾忠則の資料 横尾忠則の資料

「横尾どうぶつ図鑑 YOKOO‘S YOKOO ZOO」展、「ようこそ!横尾温泉郷」展のソフトクリームの展示、「県立横尾救急病院」展、「満満腹腹満腹」展の涅槃像など、意表を突く企画展は、横尾の世界観を体現したオリジナリティで溢れている。

 

 

 2012年の開館以来、本当に多彩な展覧会が企画されていますよね。横尾作品がもつ世界観の大きさと深さのなせる業と言えますね。

 

山本 今までの31の展覧会を企画し、コロナ禍のため一つが開催できなったのですが30展を実現できました。温泉、病院、動物園、お化け屋敷といったユニークな企画はミニマルな現代作家だったら絶対できないけど、横尾さんはOKです。それは横尾さんの作品世界が崇高なものから俗っぽいものまで無限であり、作品数も多くバリエーションに富んでいるからです。

 

平林 横尾作品の振り幅は本当に大きいです。絵画作品の主題ももちろん多様ですが、版画だけでも分厚い作品集ができますし、新聞や書籍の挿絵も立派な作品たり得ています。2015年に開催した「横尾忠則 幻花幻想幻画譚」は、瀬戸内寂聴さんの新聞小説『幻花』のための371点もの原画を展示したものですが、挿絵という範疇を越えてアートとして自立したものでした。そういう意味で私たちは横尾忠則という作家の膨大な引出しを次々と開けてみては、ユニークな展覧会の材料を見つけているのだと思います。

 

 アーカイブの視点から見ますと、今回の「満腹」で展示されていた2冊の日記は見入ってしまいました。

 

平林 日記は1981年から2014年までのものをお預かりしています。

 

 レイアウトやページ構成がまるで1冊の書籍のように完成度が高くて、さすが横尾さんだと思いました。

 

平林 本当にいろいろなアイデアが盛り込まれていて、どのページをめくってもワクワクします。例えば、日記をご朱印帳代わりにするとか、シルクスクリーンの試し刷りに使ったりとか……。
2016年に「ヨコオ・マニアリスム vol.1」というアーカイブ資料に焦点を当てた展覧会を企画したときは、作品・資料展示だけでなく、展示室内で学芸員による整理作業の様子をライブで見られるようにしていました。作品とアーカイブ資料を紐づけたり、カタログのための撮影をしたり、殺人的な作業量でしたが、アーカイブの可能性を実感することができました。

 

 カタログを拝見しましたが、横尾さんの創作の背景が垣間見られる企画は、横尾ファンにとっても大きな楽しみですね。

 

 

これからのこと

 

 美術館としての今後の展望、横尾作品をどのように深堀していくのかお聞かせください。

 

山本 企画展のテーマは無限大だと考えています。ポスターなどのグラフィックや版画、80年代から90年代前半の作品も多く収蔵していますが、今まではこれらを中心にした企画展はできていません。またアーカイブの活用も横尾さんと相談しながら光をあてていきたいですね。

 

平林 最近、日本に限らず海外でも80年代に照準をあてた展覧会が開催されています。この時代は横尾さんが画家に転向した時期ですが、また展示できていない作品や資料もあるので、さらに調査を進めて公開の場をつくっていければと考えています。

 

 お話を伺っていて、横尾さんと学芸員の山本さんや平林さんの間に信頼関係が築かれて、今までとは違った関係性のなかから多様な企画が実現されるのだろうと期待します。とはいえ「横尾忠則」は超ビッグな存在です。実際にはどのようなコミュニケーションをとっているのか興味があります。

 

山本 横尾さんは本当に多才な人で、絵も描き、文章も書き、横尾さん自身が一つの芸術作品とも言えます。ご自身が著書に書かれていますが、子どもの頃に江戸川乱歩の探偵小説や南洋一郎の冒険小説にはまって以来、まるで横尾さん自身が冒険小説の主人公のような人生を歩んで来られました。例えば、先日の日本芸術院会員の選出や世界文化賞の受賞をはじめ、86歳(2023年3月時点)の今なおスポットライトが当たっているというドラマチックな人生です。私たちとしても、そうしたドラマに水を差すようなことはなるべくしたくないのですが、どうしても予算がないとかスケジュールが苦しいという現実的な課題を避けて通ることはできません。その辺は慎重に配慮しながらご相談するよう心がけています。
実務では、横尾さんは自作についての記憶力はとてつもなくすごいです。展示プランを相談する際、私たちが作成したA3ほどのフロアプランに貼り付けた小さな図版であっても、すぐに何の作品か理解して詳しく解説をしてくれる。すごいです。

 

平林 横尾さんは多くの本を出版されていて、日頃からご自分の文章を繰り返し確認されているせいか、出来事に関する記憶力もすごいです。カタログのテキストを確認していただく際に新たな事実を発見することもあります。

 

 展覧会タイトルもとてもユニークですが、どのように決めるのですか?

 

山本 タイトルは横尾案のとき、私たちの案のとき、合作のときといろいろです。調整していても横尾さんから直前変更が入る場合もありますし(笑)。

 

平林 ただ、2018年の「横尾忠則 在庫一掃大放出展」あたりから、私たちも横尾さんにおもしろがってもらえるタイトルを考えるようになったせいか、最近は提案を了解してくれる割合が多いです。

 

 Y+T MOCAは横尾さんの存在が圧倒的なので、美術館としてブレがないかもしれませんね。

 

平林 全員、研究対象が横尾さんですし、存在が大きすぎるので、いい意味で学芸員同士の連帯感もあります。仲間割れしてる場合じゃない(笑)。

 

山本 無茶を言われて辞めたくなるときもありますが(笑)、10年を振り返ると濃密だったなあと思います。横尾さんを深堀するという特殊な環境ですが、それだけに貴重な経験を重ねてきたなあと実感しています。

 

平林 確かに特殊な美術館なので学芸員にとっては得手不得手があるでしょう。例えば、いろんなアーティストや、広い領域を対象に展覧会をしたい人には不向きかもしれません。でもアーカイブも含めて一つのテーマ、一人の作家を突き詰めたい人には沼にはまるようなおもしろさがあります。横尾さんご自身の作品の幅も広く、アーカイブ資料には昭和のアングラ演劇、60年70年代の音楽、デザイン、80年90年代の文化を感じさせる仕事や、その時代の文化を担ってきた人々との交友録など多彩で、どこから入っても私たちが知らない世界に連れて行ってくれる広がりがあります。

 

 展覧会ポスターも横尾さんデザインなのだからすごいですよね。

 

平林 地方の小さい美術館なのにB1ポスターを、しかもヴァンヌーボみたいな贅沢な紙でつくっているところは珍しいでしょう。「満腹」のポスターは、過去の31の展覧会を並べて「ふりだし」と「あがり」がある双六のようなデザインになりました。

 

 1階で放映されていた山本さんの「満腹」のギャラリートークの映像も双六板を使ったユニークな内容でしたね。楽しく拝見しました。

 

平林 コロナ禍でイベントやワークショップができず、代わりに解説動画をつくったのがきっかけですが、お陰で、映像で展覧会記録を残せるようになりました。今後も予算が許す限り、展覧会ごとに動画をつくってアーカイブとして残し、公開もしていきたいです。

 

山本 アーカイブの整備はまだまだ途中段階ですので、引き続きこつこつと取り組んでいきたいです。

 

 今日はアーカイブルームの見学も含め、貴重なお話をありがとうございました。

 

 

横尾忠則さんのアーカイブの所在

問い合わせ先

横尾忠則現代美術館 https://ytmoca.jp/