日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

宇野亞喜良

イラストレーター、グラフィックデザイナー

 

インタビュー:2022年12月15日 15:00〜16:30
場所:DNP文化振興財団
取材先:宇野亞喜良さん、宇野三枝子さん
インタビュアー:久保田啓子、石黒知子
ライティング:石黒知子

PROFILE

プロフィール

宇野亞喜良 うの あきら

イラストレーター、グラフィックデザイナー

1934年 愛知県名古屋市生まれ
1952年 名古屋市立西陵高等学校図案科(現・名古屋市立工芸高等学校)卒業
1956年 カルピス食品工業広告課入社
    第6回日宣美展特選「バレエ〈カルメン〉」(ポスター)
1957年 フリーランスデザイナーになる
1960年 日本デザインセンター入社
    第10回日宣美展会員賞「旭化成・カシミクロン」(ポスター)
1964年 横尾忠則、原田維夫とスタジオ・イルフィル設立(翌年離脱)、
    瀧本唯人、和田誠、横尾忠則らと東京イラストレーターズ・クラブ設立
1965年 スタジオRe設立(68年解散、フリーに)、
    グラフィックデザイン展「ペルソナ」参加
1966年 東京イラストレーターズクラブ賞『あのこ』(理論社)『近代建築』
    (近代建築社、1965-66)(表紙)
1982年 第13回講談社出版文化賞さしえ賞「パリの扇」(小泉喜美子著)
    「美食者(青柳友子著)
1989年 第15回サンリオ美術賞
1992年 第6回赤い鳥さしえ賞(『カモメの家』山下明生著、理論社)
1999年 紫綬褒章受章
2008年 第13回日本絵本賞(舟崎克彦文『悪魔のりんご』)受賞
2010年 旭日小綬章受賞
     『宇野亜喜良展 AQUIRAX』刈谷市美術館(愛知)
2015年 第22回読売演劇大賞選考委員特別賞受賞
    (新宿梁山泊『ジャガーの眼』美術、結城座『オールドリフレイン』人形美術)
現在TIS(東京イラストレーターズ・ソサエティ)会員

宇野亞喜良

Description

概要

1950年代後半より今日まで、60年以上、そのイラストとデザインで人を惹き付けてやまない稀有な鬼才、それが宇野亞喜良(Aquirax)である。イラストレーションで時代を牽引してきた先駆者であり、作家や音楽家、舞台演出家らは今も彼の想像を超える表現に魅了されている。詩人の白石かずこはこう形容する。「宇野亜喜良の世界は遠くて近い、近くて、近くと思えて遠い世界である。その辺に宇野亜喜良の人気とミステリーがある。日本全国、宇野亜喜良、彼の絵は何千何百何万の卵を産卵した。卵とはファンだ。宇野亜喜良、彼の絵に懸想した酔心者たちだ。デザイナー、イラストレーター、画家、いろいろな名前がかぶせられるにしても、彼が古典的な意味で絵画と装飾の職人であり、この右にでる人は、いないであろう。」(『アート・トップ』31号、芸術新聞社、1975)
1934年名古屋市に生まれる。小学生の頃から室内装飾家の父より絵の手ほどきを受け、集団疎開した先でも絵を描いていたという。戦後、中学生になってから絵画研究所に通い、宮脇晴に師事し画家を志す。1949年に名古屋市立西陵高等学校図案科(現・名古屋市立工芸高等学校)に入学すると、在学中からデザインコンペで腕を磨き、これをきっかけに、デザイナーを目指すようなる。卒業後は、カルピス食品工業、日本デザインセンターを経て独立した。圧倒的な画力で「黄金の左腕」と形容される。イラストレーター、グラフィックデザイナーとして第一線に立ち続け、特に60年代、70年代は寺山修司演出の天井棧敷などアングラ系の劇団を中心としたサブカルチャーとも結び付いて一世を風靡した。街に貼ったポスターが剥がされるほどで、その熱気は白石かずこの文章からも伝わってくる。広告、挿絵、装丁、舞台や映画のポスターのほか、キューレーションや舞台美術、芸術監督も手がけてきた。近年、宇野の作品や資料の多くが、愛知県の刈谷市美術館に収蔵されるようになり、管理されている。
多彩な仕事ぶりから、個展も度々企画される。アーカイブが充実し機能しているからこそ可能なことである。

Masterpiece

代表作

雑誌・書籍

『新婦人』表紙(文化実業社、1960-66)、『母の友』表紙(福音館書店、1964)、カッパ・ブックスのカバーデザイン、挿絵(光文社)、カッパ・ホームズのロゴ、カバーデザイン(光文社)、『近代建築』表紙原画(近代建築社、1965-1966)、『話の特集』(日本社、1966- )、『ユリイカ』表紙原画、デザイン(青土社)
梶祐輔『海の小娘』挿絵(横尾忠則と共作、朝日出版社、1962)、今江祥智『あのこ』挿絵(理論社、1966)、寺山修司『ひとりぼっちのあなたに』(新書館、1965)含むFor Ladiesシリーズの挿絵、山下明生『カモメの家』挿絵(理論社、1991)、小沢正『ぼくはへいたろう』挿絵(福音館書店、1994、2002、2003)、舟崎克彦『悪魔のりんご』挿絵(小学館、2006)

 

演劇・映画・音楽・イベント

木馬座 舞台美術(1962)、演劇実験室 天井棧敷公演『星の王子さま』同『ブラブラ男爵』ポスター(演劇実験室 天井棧敷、1968、1970)、串田和美監督映画『上海バンスキング』美術(オンシアター自由劇場、1988)、布袋寅泰『GUITARHYTHM』アルバムジャケットデザイン(東芝EMI、1988)、麻布十番納涼祭りのポスター(1999-)、渋谷コクーン歌舞伎『桜姫』ポスター(松竹・Bunkamura、2005、2009)、椎名林檎『浮き名』『蜜月抄』アルバムジャケットデザイン(EMI Records Japan、2013)、新宿梁山泊『ジャガーの眼』美術(2014)、結城座『オールドリフレイン』人形美術(2015)

 

ロゴ、パッケージ、広告

「マックスファクター」ポスター、新聞広告(マックスファクター、1965-68)、「明治ロンドチョコレート」ロゴ・パッケージ(明治、1966)、新宿「TAKANO」ロゴ(新宿高野、1966-67)、「セーラー21金ペン」CM、ポスター(セーラー万年筆、1968)

 

著書

『薔薇の記憶―宇野亜喜良全エッセイ1968‐2000』(東京書籍、2000)、『宇野亜喜良60年代ポスター集』(ブルース・インターアクションズ、2003)、『白猫亭 追憶の多い料理店』(小学館、2004)『MONOAQUIRAX+宇野亜喜良モノクローム作品集』(愛育社、2009)、『宇野亞喜良クロニクル』(グラフィック社、2014)、『宇野亞喜良ファンタジー挿絵の世界』(PIE International、2016)

 

アニメーション作品

『白い祭り』(1964)、『お前とわたし』(1965)、『午砲(ドン)』(1966)

宇野亞喜良作品

Interview

インタビュー

度肝を抜く、ビジュアルスキャンダルをつくりたいのです

刈谷市美術館がアーカイブを管理

 先ほどギンザ・グラフィック・ギャラリー第392回企画展「宇野亞喜良 万華鏡」(会期:2022年12月9日〜1月31日)を拝見いたしました。宇野さんは1950年代から半世紀以上に渡り、イラストレーター、グラフィックデザイナーとして第一線で活躍されています。本日は宇野亞喜良さんと夫人の三枝子さんご同席のもとインタビューさせていただきますが、時代を超越してきた宇野さんの創造の源に少しでも迫ることができたら、と考えています。 まず、この展覧会では刈谷市美術館所蔵の作品が展示されていました。宇野さんの作品の多くが同美術館に収蔵されているとのことですが、その経緯について教えてください。

 

宇野亞喜良 万華鏡 宇野亞喜良 万華鏡

ギンザ・グラフィック・ギャラリー「宇野亞喜良 万華鏡」の1階の展示会場。俳句と少女をテーマにした宇野の作品シリーズを題材に、津田淳子が特殊印刷設計による新たな表現に挑んだ。
Photo by Mitsumasa Fujitsuka

 

 

三枝子 宇野が名古屋市出身で愛知県のつながりというぐらいで接点はなかったのですが、刈谷市美術館の方から声をかけてくださったのです。

 

亞喜良 最初は愛知県出身のコレクションから始まったようです。刈谷市が持っているコレクションとしては、僕の先生であった宮脇晴さんをはじめ、杉本健吉さんや横井礼以さんなど、画家の方の作品が多かったんです。

 

 美術館から声をかけられたのはいつ頃ですか?

 

三枝子 最初に訪ねてきたのは15年ほど前でしょうか。美術館の学芸員の方が3年ぐらいかけて、オフィスの倉庫で保管していたコレクションを丁寧に見てくれました。絵本や単行本の挿絵やポスター、原画、書籍、立体まで、いろいろありました。全部で3000点あったと聞いています。そのコレクションを選び出し、2010年に刈谷市美術館で『宇野亜喜良展 AQUIRAX』が開催され、その後、それらの作品を収集してくれました。
それまで私たちはポスターを筒に入れて保管するぐらいで、分類や整理などはしていなかったのですが、状態はきれいだったようです。膨大にあったコレクションを学芸員がすべて整理し、調べあげてくれました。現在の館長代理を務める松本育子さんがずっと宇野の担当をしてくださっています。今回の展覧会でも、ギンザ・グラフィック・ギャラリーの学芸員と話し合って、すぐに対応してくださった。きちんと作品が整理されているので、展覧会で貸し出しの必要が生じたときは、刈谷市美術館に連絡が行くようになっています。保険をかけて美術梱包で受け渡しをしています。

 

亞喜良 今回の展覧会の地階会場で1960年代のポスターが約50点展示されていますが、僕は一言も説明を付け加える必要もなくて、刈谷市美術館のほうでキャプションから何からしっかり管理していました。

 

宇野亞喜良 万華鏡 宇野亞喜良 万華鏡

「宇野亞喜良 万華鏡」で地階には50点のポスターが展示された。
Photo by Mitsumasa Fujitsuka

 

 

三枝子 でもそれから10年近くが経過して、今もトランクルームを3部屋借りていますが、作品や資料が溜まってしまい、ぎっしりになっています。これも刈谷市美術館にお渡しする予定です。将来的に新たにお渡しする資料も含めて、宇野の展覧会を開催してくれたらと思っています。それまでは生きていないといけないと宇野も言っています。

 

亞喜良 2019年に和田誠君が亡くなって、ほかにも近しい友人たちが亡くなって…。宇野亞喜良も近々やばいという感じで展覧会が次々企画されているのかな、という感じではありますが(笑)。僕自身はそういうことを意識していないので、あまり協力的ではなかったんですが、刈谷市美術館が納入からタイトルやデータづくりから、すべてやってくださいました。

 

 アーカイブとして作品を保存する必要性を感じつつも、公立・私立の美術館や大学ではスペースも人手も予算も足りず、立ちゆかなくなっています。宇野さんのように、美術館がコレクションしているだけでなく、作品のアーカイブ化や管理状況が進展しているのは、まさに理想的で、現実的にはレアなケースとなっています。

 

亞喜良 これまでも、何かあると刈谷市美術館に相談するようになっています。

 

三枝子 川崎市市民ミュージアムにも何点か収蔵されていましたが、2019年の台風被害で水没して、すべてだめになってしまいました。

 

亞喜良 2022年に堺 アルフォンス・ミュシャ館で『アンニュイの小部屋——アルフォンス ・ミュシャと宇野亞喜良』というミュシャと宇野亞喜良の共通点を見せる展覧会がありました。

 

三枝子 同館で過去最高の3万人が来場したそうです。これも刈谷市美術館から作品を貸出ししています。

 

亞喜良 川崎市市民ミュージアムは、十数年前にその発想をもって、やっているんですね。『宇野亜喜良とアール・ヌーボーの作家たち』と題して、2011年に展覧会をしています。僕はミュシャに影響を受けたとは思っていないし、あまり考えたこともないんだけど、他人からすると、ある種の時代の風俗を描いていたり、女性を中心にしているところに共通点を見出すのでしょう。並べるとおもしろい現象が出てくるということだと思いますが、川崎市市民ミュージアムが先にミュシャと僕をつなげました。そんな縁ある場所が水難に遭って心を痛めています。

 

 

ポスターというメディアの変容性

 

 2021年に宇野さんは、古今の俳句から着想を得た書き下ろし画集『宇野亞喜良 画集 Kaleidoscope』(グラフィック社)を上梓されています。今回の1階の展示は、この万華鏡を空間に展開したものですね。画集で印刷に関わった津田淳子さんが展示用に特殊印刷設計を行い、画集から作品が飛び出して変化した様相となっていました。ポスターはブックデザインを担当した大島依提亜さんが手がけています。

 

亞喜良 1階の展示は、津田さんが僕の絵をもとに印刷クリエイティブというバラエティをやってくれたものです。印刷的オリジナリティをどう発揮するかということで、原画と全然違うものにも転用できうることを津田さんがやってくれた。本来は、僕がやるべきことなんだけど、僕より詳しい趣味を持った人がいたので、そのまま津田さんの才能をいただいたわけです。原画との比較においてすごいことをやってくれたわけで、そこのところが伝わらないと、津田さんにちょっと悪い気がしました。

 

 宇野さんの世界として見てしまう方もいたかもしれませんが、原画と印刷クリエイティブの相乗効果を感じました。コラボレーションがないと、なかなか新しい作品は生まれませんね。

 

亞喜良 グラフィックデザインやイラストレーションは、そこにクライアントなり、メディアなりがあって成立するものです。それの再現方法としてシルクスクリーン印刷などの印刷技術があり、自分の手でなくても、自分の感覚が再現できるわけです。一方で、僕は印刷自体を信用していないというか、再現性や復元性に対しても、あんまり信頼をもっていないんです。例えば、町に貼られている映画のポスターとかも、赤色が飛んでブルーの色は意図とは違う色なのだろうと思って見ています。そもそもポスターは変容していくもの。貼っているうちに、破れたり、退色したりする。そういうメディアの世界に入っていると自負しているから、画家とは基本的に違うんです。その変容も面白いと感じていて、2年ぐらい経った赤インクにする、というところまで指定できれば、おもしろいですよね。今回の展示をみなさん褒めてくれるんだけど、「色がきれいですね」とか言われると、褒められているのは僕の領分じゃないと感じてしまうのです。

 

 宇野さんは、「明治ロンドチョコレート」や新宿TAKANOのロゴタイプ、「マックスファクター」の広告デザインなど、時代を牽引したグラフィックデザイナーでもあります。しかしその後は意図して「イラストレーター」と名乗られています。舞台美術やアートもイラストレーターの仕事に含まれるとのことですが、デザインからイラストへ選択された背景やお考えをお教えください。

 

亞喜良 理屈として変わっていないというか、グラフィックデザイナーと言われてもうれしいというか。どちらでもいいんですよね。肩書きは、イラストレーター、グラフィックデザイナーと、二つ並べてほしいくらいです。 先ほども言ったように、イラストレーションというのは、印刷メディアなどの復元するメカニズムを通すことが多いので、画家とは異なる再現性の美術です。興味は、どう複製化されるかにあります。

 

宇野亞喜良 「越路吹雪リサイタル」ポスター

「越路吹雪リサイタル」ポスター(1959)。広告デザイナーとして活動した当初より、ポスターの仕事は重要な位置を占めていた。ADは杉浦康平。
所蔵・写真提供:刈谷市美術館

 

 

 実際に宇野さんはイラストとデザインを同時にされていたので、併記するのが正確ですね。

 

亞喜良 自分で描いて、自分でデザインした出版物が仕事場に段ボール6箱ぐらいあります。それを全集・画集にしようという出版社があったのでまとめていたのですが、2014年に『宇野亞喜良クロニカル』(グラフィック社)が出版されたので、そちらの企画は頓挫してしまい、資料はそのまま箱詰めされて置かれているんです。
今は分業化というか、ビジュアルな絵の要素がないのはグラフィックデザイナーが装丁をやり、グラフィックデザイナーが絵を必要とした場合は、デザイナーが画家を指名したりしています。われわれイラストレーターの先に装丁のデザイナーがいる感じになっている。でも僕らの時代、和田誠や横尾忠則も、自分たちでデザインもしないと気が済まなかった。そういう時代だった。ごく最近の現象ですよね。装丁デザイナーがイラストレーターを選ぶ。ある女流作家の受賞パーティに行ったら、イラストレーターは僕のほかに誰もいなくて、デザイナーが作家と親しくやりとりしているのを目にしました。作家からの依頼をデザイナーが受けているのです。社交的なこともデザイナーが担っていて、作家と仲良くなっている、そういう努力をするイラストレーターはあまりいないようです。

 

 

和田誠が引き出した宇野亞喜良

 

 光文社のカッパ・ブックスは、1960年代から70年代の表紙の装丁は田中一光さんが担い、「カッパ・ノベルス」や「カッパ・ホームス」など、シリーズも生んだヒットレーベルですが、そこで宇野さんもイラストとデザインを手がけていらっしゃいました。

 

亞喜良 僕がロゴをやったのもあるし、イラストも描く場合も、イラストレーターをチョイスした場合もありましたね。
作家とイラストレーターの関係で思い出すのは、中里介山の『大菩薩峠』での「挿絵事件」です。石井鶴三が絵を描いていたのですが、その挿絵を収録した『石井鶴三全集 第一巻』(光大社、1934)が出たときに、作家の中山介山から「挿絵は画家の作に非ず、本文の複製なり、その著作権は本文作者にあり」とクレームをつけたのです。「私の作品がなかったらこの絵はない」として、画家と出版社を相手取り、訴訟した。挿絵が生まれる背景には小説があるのはわかるけれど、クリエイティブな権利をどうとらえるかは難しいことです。この裁判は話題となり、挿絵に対する世間の興味も高まりました。10年の裁判を経て、鶴三が勝訴となり、挿絵の創造性が認識されるきっかけになりました。

 

 ところで、宇野さんのイラストのタッチは、いつ頃から、どのように変わられたのでしょうか。

 

亞喜良 自分では、よくわからないですね。60年代に『話の特集』という雑誌がありました。表紙は横尾忠則、アートディレクターは和田誠、編集長は矢崎泰久。みな、親しい仲間です。中に栗田勇によるフランス官能小説があったのですが、それを和田君が僕にイラストを描かせてくれた。寺山修司が時代をシニカルに描いた小説もあって、それも僕に描かせた。後者は、ゲイボーイたちのふざけた、シニカルな会話があって、ちょっと笑える小説でした。1冊の雑誌の中で、官能小説みたいな気取ったものから、寺山修司の風俗喜劇まで、僕に描かせてくれた。あるときはどういういきさつだったか、綴じ込みのカラーページに、見開きの女性のヌードのページをくれたのです。林宏樹君という親しいカメラマンと組んで、僕が女性の身体にボディペインティングをして。裸だからエロティックなんだけど、そこに鳥がいたりして、僕の絵を加えたヌード写真になっているんです。伊藤五郎という、当時の出版界ではありえないようなトップのメイクアップアーティストを起用して、背景画家には東宝の映画を手がけている人が加わったり。和田誠という人が、僕のなかのジャンルを同時期に使い分けてくれたんです。経費がどうなっていたのかわからないけれど、費用と本が売れる効果も計算していたはずで、すごい人だと思います。つまり、僕のなかの様式は、一つの時代のなかにいくつかあったりするんです。小説とか、あるテーマが来ると出てくる宇野亞喜良があると思いたい。引き出し方によっては、いくつもあるよ、とね。

 

 

寺山修司との仕事

 

 興味深いお話です。和田さんの才覚もさることながら、同時に、時代のあちこちで宇野さんのイラストを求めていたとも感じます。

 

亞喜良 寺山さんにはこの当時、『ひとりぼっちのあなたに』(新書館、1965)とか、叙情的な小説をシリーズ化したFor Ladiesシリーズで少女の挿絵を描いています。これが少女をイラストとして描いた最初でした。そのシリーズが人気を博して、すごくファンレターが来て、寺山さんもちょっといい気分になっていたと思います。2年後の1967年に、天井棧敷というアンダーグラウンド演劇を立ち上げますが、その設立メンバーに横尾さんを入れているんだけど、こんなに商業成績を上げている宇野亞喜良は入れてくれないんです。でも、それもよくわかるんです。宇野亞喜良を入れると少女性や叙情性を連想させて、ひょっとすると宝塚みたいなものをやりだしたと思われるかもしれない。前衛をやりたいときに、寺山修司は横尾忠則を使ったのです。3本目ぐらいから、僕を美術に使ってくれて、僕は演劇に行くわけだけど、寺山さんも宇野亞喜良の種類がわかっていたのでしょう。

 

 そのときの少女は、イメージの源泉は何かあったのでしょうか。

 

亞喜良 ノスタルジックに、時代の風俗というか、自分のなかに出てきたんですね。「みゆき族」の影響を受けたのだと思います。1964年の夏に、銀座のみゆき通り周辺に集まった若者は一世を風靡して「みゆき族」と呼ばれました。でも東京オリンピック開催のための風紀の取り締まりが行われて、秋には消えてしまいます。わずか数ヶ月の寿命でした。男性はアイビールック、女性は白いブラウスにぺたんこの靴で、ズダ袋を抱えている。ちょっとセミロングで、ちょっとフリルが付いていて。叙情的なのにアバンギャルド。それまでのヨーロッパから来たAラインとかとはまったく違う日本のオリジナルでした。あれはすごい文化だったと思うんです。その頃に描いているので、影響を受けています。
今は、曖昧な女の子の心理みたいなものが入った、特定の時代ではない女の子を描きたいという感覚で描いています。抽象的な女性なんです。
それと当時はゲイバーにマッチを描いたことがあるんですが、ゲイの人たちの感覚の鋭さに憧れを抱いていました。ジャン・コクトーが好きだったというのもあるかもしれません。

 

 寺山さんもそうした危うさを孕んだイラストに共鳴されたのでしょうね。

 

亞喜良 中原淳一さんの息子さんと知り合って聞いたのですが、寺山さんは中原さんのところに原稿を投稿していたそうです。中原さんは画家で編集者でもあり、女性向けの『それいゆ』や『ひまわり』『ジュニアそれいゆ』などを創刊されていたけれど、寺山さんの原稿は掲載されなかった。寺山さんも興味があったんだな。それがわかっているから、僕を参加させずに横尾さんを入れたのでしょう。叙情的なもの、女の子のテーストも知っていたんです。
寺山さんの初めての詩集には、鈴木悦郎という画家・イラストレーターが描いているんですけれど、鈴木悦郎は中原淳一さんの『ひまわり』の目次とかを描いている。鈴木悦郎に頼んだならば、中原系の文化に詳しいと、あとになって気付きました。

 

 

宇野亞喜良の真骨頂

 

 70年代の天井棧敷の公演では舞台、宣伝美術を手がけられました。1996年より、ダンスエレマン・斎藤梢バレエスタジオの美術を手がけられ、芸術監督もされています。そういった舞台美術の仕事では、デザイナーの視点で見ていらっしゃるのですか。

 

亞喜良 一種のデザインの視点でしょうけれど、こんなところに突然、巨大なカタツムリがいたらおもしろいだろうというような、ビジュアルスキャンダルともいえる発想を入れたりしています。本にはない風景、情景をつくったりします。ダンスエレマンは20年ぐらいかかわったんですが、後半は台本を僕が書いたりもしました。ボール紙でつくった家屋を燃したり、煙とライティングで、階段だと思っていたものが剥がれてダンサーがそこから次々出てきたり、トリッキーな、演劇的な、スキャンダラスな情景をつくりたいんですね。基本的には、あっと言ってほしいというのが、僕の全体のなかにあるのかもしれません。「カタツムリなんていやだ」というようなカタツムリを入れる。一瞬目を留めてもらうためのテクニックとも言えますが、不思議なこと、ありえない状況をつくりたいというのが、たぶん、根底にあるんでしょう。

 

 ビジュアルスキャンダルによって魅力的になっていくのですね。

 

亞喜良 このタイトルだとこういうイメージで来る人の度肝を抜きたいとか、驚かせたいという発想はありますね。

 

 

挿絵がもつ影響力

 

 今回の展示も、若い方が多く訪れています。2013年の椎名林檎のアルバム『浮き名』や、黒色すみれなど、ミュージシャンにイラストが起用されたり、2017年の映画『メアリーの総て』でコラボするなど、若い世代からも支持されています。インパクトを与え続けられるのは、なぜなのでしょうか。おそらくご本人には語りにくいとは思いますが。

 

亞喜良 それは語りにくいというよりも、わかっていないのだと思います。挿絵に興味を持ったのは子どもの頃からです。小学校6年生で終戦を迎えましたが、僕は、『暮しの手帖』や中原淳一さんの『ひまわり』、『それいゆ』、『ジュニアそれいゆ』『少年倶楽部』など、雑文化の中で育ちました。うちは戦前から母が喫茶店をやっていたので、客のために用意した各社の新聞や雑誌も揃っていました。
その中で覚えている一枚があります。木村荘八(洋画家、版画家、随筆家)という人が、舟橋聖一の『花の生涯』の挿絵を描いていたのです。時代物の小説なんですけれど、いい女が出てくるのです。三味線を弾いたり、都々逸とか小唄も教えている粋な女性です。そこに文字で「赤いもので言えば、官女の袴に緋毛氈、月に7日のお客様」と、男が唄うのが描かれていたんです。小説の中に小唄を教えるシークエンスはまったくないんですね。今になって思うと、舟橋さんが原稿が書けておらず、勝手に発想して木村荘八が描いたものだと思います。それを見たのは中学生ぐらいかな。女の生理を月に7日と言ったのがなぞなぞみたいで、おもしろいでしょ。なんだか現代的でもある。新聞だったと思うけど、こんなわいせつなことを描いていいのかというので衝撃を受けました。この驚きも、何パーセントかは、挿絵を描きたいという願望につながっている気がします。僕も文字を和文字で書くんです。丁稚が「てめえ」とか。台詞で人格が出る効果があります。文字を書くのが好きなんですね。
それから、獅子文六の『自由学校』という小説が流行って、それを原作に松竹と大映が映画化するということがありました。松竹版で主役は佐分利信がやりましたが、この小説の挿絵は宮田重雄という医者であり画家でもある人が描いていたんですが、ちょっと肥満体の男が描かれていた。佐分利信とはイメージが違うと思っていたら、大映は絵に合わせて一般から公募したんです。そのとき、挿絵の影響力はすごいな、と思いました。

 

 詳細に今でも記憶されているほど、インパクトのある出来事だったのですね。

 

亞喜良 それからはいろんな挿絵をノートに写していました。2、3冊ノートが溜まったときに、そのカバーに何て書き入れようかと、辞書で調べて、挿絵というのはイラストレーションだと知り、書き入れました。じつは木村荘八の全集にも、英語でIllustrationと書かれていたのです。一般にイラストレーションという言い方が普及するのは、そのずっとあとになってからのことです。

 

 その中学生のときの感覚で、情熱が新鮮なまま、88歳まで続くのがすごいですね。それが若い世代にも訴求する理由であるように感じます。

 

亞喜良 挿絵画家としては岩田専太郎さんなどプロはいたんですけれど、職業的すぎておもろくないように感じていました。それよりも木村荘八の仕事に惹かれました。僕の学校が図案科で、昔は「図按」と書きましたが、新聞社主催のコンペがあって、グラフィックに置き換える作業で賞をもらったりしているうちに、絵画よりもデザインがおもしろいと感じるようになりました。知り合いに演劇人がいて、頼まれて絵を描いたところ、「君の絵は叙情的すぎる。叙情というのは、これからの日本を考えると、振り返る行為である」と言われてしまったのです。演劇は左翼系が多かったせいかもしれませんが、これから改革していく日本をつくるうえでふさわしくない、と出鼻を折られました。デザインは依頼されて、依頼した人の思想なり、人のテーマを代わりに言ってあげる翻訳業だから、叙情的であろうとかまわないじゃないか、とふてくされた感もありました。絵を描くことだけでなくて、人のメッセージを置いてあげることもいいな、とこの経験から思い始めたのです。木村荘八の挿絵がそういうものでした。
それでデザインがおもしろくなってきた。そのころに日宣美展が名古屋であって、亀倉雄策さんや河野鷹思さんら有名なデザイナーが出展していて、それを見て感激して。公募展に応募して、入選して名古屋地区の会員になりました。でもまもなく東京に出てくるんだけど、東京地区では会員ではないので、ヒラのデザイナーとして再び応募して特選になって、東京地区の会員になりました。リアルな絵や様式化したもの、絵画的なもの…これがあたるかな、と何種類か違う様式で描いたりしました。特選に選ばれたのは、バレエのカルメンを描いたものでしたが、スペルを間違えていた。選考委員の誰かが「スペルが違う」と批判したところ、河野さんが「こんなのは直せばいいから」と言ってくれたのです。結局、そのまま特選に選ばれ、会場まで直しに行きました。河野さんの言葉が大きかったと思います。

 

三枝子 河野さんは大きな方でした。

 

亞喜良 今考えると、いろんな様式を変えたり、発想を変えることが好きだったわけだから、画家になって芸術を目指すのとは違う、ある種の俗物根性があったということなのでしょうね。

 

 

日本デザインセンターとグラフィック21の会

 

 宇野さんは高校の図案科を卒業後、1956年にカルピスに入社、59年に退社しフリーのデザイナーになっています。その頃から杉浦康平さんの仕事を手伝うようになり、60年に広告制作プロダクションである日本デザインセンターに入ります。どのようないきさつなのでしょうか。

 

亞喜良 杉浦康平さんが1956年に日宣美賞を取って、細谷巖さんや粟津潔さんもその前後に賞をもらっていました。みなで集まっているうちに、仲條正義さんや福田繁雄さん、江島任さんが藝大系で集まって3人展を行ったんです。杉浦さんも藝大だけど建築科なので仲條さんたちとは一緒にやっていなかった。だったらわれわれも展覧会をやろうかということで杉浦家に集まったりしていたのです。僕は杉浦さんのことをすごく尊敬していたんです。でも展覧会はやらずに終わりました。

 

三枝子 意見がまとまらなかったの?

 

亞喜良 「グラフィック21の会」というのがあって、そちらに移行したというか。亀倉雄策さんと山城隆一さんがボスみたいな感じで、毎月21日に、六本木の国際文化会館に集まるんです。もし何か作品があれば持って出かけ、みなで批評したりするのです。あるときは現代建築についてしゃべるからと、清家清さんがゲストに来てくれたりしました。僕は誘われて途中からメンバーになりました。宇治の平等院に行ったり、東照宮を論じたり。移動のバスでバスガイドのマイクが回ってきて論じるんですよ。理論武装みたいなことをやっていました。
それが日本デザインセンターをつくる下地になったと今になると思います。でも杉浦さんや粟津さんは、広告づくりはいやだと言って分かれていきました。永井一正、田中一光、木村恒久、片山利弘の4人は参加していたし、僕を含め、21の会のほとんどそのままが日本デザインセンターに入りました。
もうひとつ、世界デザイン会議が60年代にあるんですけれど、そのことともデザインセンター構想が重なっていたと思います。とにかく巨匠二人がすごかった。あの二人が企画して、おもしろい青春でしたね。

 

 原田維夫さんと横尾さんはすぐにデザインセンターを出てしまうんですよね。そして64年に宇野さんと3名でスタジオ・イルフィルを結成されます。

 

亞喜良 でも一年で解散してしまったんです。

 

三枝子 それって、あなたが悪いんじゃないの?

 

亞喜良 そう、僕が悪い。銀座の2丁目の狭いビルの6階をオフィスに使っていました。狭くてトイレの音が聞こえちゃうので、用を足すときは近くの松屋デパートまで行っていたんです。その頃、原田君は売れていたけれど、僕と横尾くんは仕事がなくて。やっと来た仕事がマックスファクターの新聞広告でした。でもその事務所では狭くて新聞が広げられないので、事務所を出ちゃったんです。

 

 マックスファクターはそんな早い時期に依頼があったのですね。

 

亞喜良 65年ですね。電通からの依頼なのか、藤井秀樹というカメラマンが僕とやろうと言ってくれたのか、記憶は定かではないけれど。アイメイクのキャンペーンだったかな。でも撮影する時間がなくて、藤井さんの撮っていた写真から女の子の写真を選んで、涙の滴がダイヤモンドになっている絵を目の下に入れました。当時の印刷は粗い網でできていたので、肉筆で描いても違和感がなかったんです。その前後から、『新婦人』という雑誌の表紙をやっていて、鈴木恒夫さんがカメラマンだった。いろんな写真をいじくることをやっていたので。僕と組むカメラマンは、写真をいじることに抵抗はないです。

 

 確かに、スキャンダルというか、そこには驚きがありますね。

 

亞喜良 当時は印刷が悪くて、砂目製版でやったものですが、ボッティチェルリの絵を背景にモデルをスタジオで撮って、切って、絵の上に貼り込んで。それがバレない。網点がサンドペーパーみたいな網で、今の復元度の高い製版ではできないことができたんです。ボッティチェルニの植物みたいなものを点描でモデルのスカートに入れたり、絵画的なことが平気でできた時代でした。

 

宇野亞喜良 マックスファクター(Fragrance Festival)」新聞広告校正紙 宇野亞喜良 マックスファクター(Fragrance Festival)」新聞広告校正紙

ともに「マックスファクター(Fragrance Festival)」新聞広告校正紙(1965)。右は涙のダイヤモンドを描き入れ、左はボッティチェルリの絵を加工し、紙面に驚きを与えている。
所蔵・写真提供:刈谷市美術館

 

 

 1970年の後楽園ゆうえんちで行われた天井棧敷公演『ブラブラ男爵』も話題になりました。

 

亞喜良 普通の人が考える広告とは違うことがやりたかった。僕にはもともとドッキリさせたいものがあるんですね。

 

 マックスファクターなどのクライアントもそれを期待して依頼していたんでしょうね。

 

亞喜良 1作目で気に入ってくれたんでしょうね。

 

三枝子 マックスファクターもあなたの好きなようにやってくれって言ってたわね。「ジョワジョワ」とかもそうでした。

 

亞喜良 通常キャンペーンはアメリカの本社で立てた企画なんですが、ロゴは僕が描き直したりしていました。日本でやる企画では、安井かずみ(作詞家)を巻き込んで、なんかやってくれないか、と。英語のジョイをフランス語にしてジョワジョワとして、キャンペーンをやりました。

 

 60年代、70年代の仕事や出会いは、その後の宇野さんの礎となりました。振り返ると、誰との出会いが大きかったと思われますか?

 

亞喜良 それは三人のカメラマンでしょう。まず鈴木恒夫さん。『新婦人』の表紙は6年続きました。マックスファクターの藤井秀樹さん。そして『話の特集』の林宏樹さん。みんな早くに亡くなってしまいました。

 

 写真があって宇野さんのイラストやデザインがより驚きを与えるものとなっていったのですね。インパクトがある作品だからこそ、今も企画展などで度々活用されるのだと思います。早くに宇野さんに声をかけた刈谷市美術館は先見の明があったといえるでしょう。ぜひ、美術館も取材したいと思います。今日のお話は、デザインとイラストに関する貴重な歴史の証言でもありました。本日はありがとうございました。

 

 

 

 

刈谷市美術館のアーカイブとは

1983年6月に開館した愛知県の刈谷市美術館は、地方の公立美術館としての役割をふまえ、愛知県をはじめとした地域に縁のある近・現代美術を軸にしたコレクションの形成を目指し、作品の収集活動を行っている。
愛知県名古屋市出身の宇野亞喜良はまさに収集の対象であったが、同館ではさらに、戦後に前衛的な活動を繰り広げた作家たちの「戦後の美術」、同館と同時代性のある作家たちの「現代の美術」、原画から絵本・雑誌、広告、ポスターなどの収集も対象としており、この3点での重なりもあることから、宇野のコレクションが同館にとって重要なものとなっていることがわかる。
同館が所蔵する600点弱の宇野の原画やポスターなどのアーカイブは、「収蔵作品データベース」などで公開されている。また2022年以降、宇野は近年までの活動に関するアーカイブ資料の整理を同館に依頼し、作品調査に力を注いでいると聞く。今後ますます質量ともに大きなウェイトを占めていくだろう同館の宇野コレクションについて、将来の具体的な計画が見えてきた際に、アーカイブについてのご意見とノウハウとあわせ、あらためて取材したいと考える。

 

 

 

宇野亞喜良さんのアーカイブの所在

 

刈谷市美術館 
https://www.city.kariya.lg.jp/museum/

刈谷市美術館「収蔵作品データベース」
http://jmapps.ne.jp/kariya_art/