日本のデザインアーカイブ実態調査

DESIGN ARCHIVE

Designers & Creators

杉本貴志+スーパーポテト

インテリアデザイナー

 

インタビュー:2021年7月21日(水)14:00〜15:30
取材場所:スーパーポテト
取材先:杉本 泉さん(代表取締役)、前田慎也さん、飯島直樹さん(飯島直樹デザイン室)
インタビュアー:関 康子、石黒知子
ライティング:石黒知子

Profile

プロフィール

杉本貴志 すぎもと たかし

インテリアデザイナー

1945年 東京生まれ
1968年 東京藝術大学美術学部工芸科卒業
1973年 スーパーポテト設立 代表
1985年 TOTOギャラリー・間 設立委員
1986年 春秋設立 代表取締役
1992年 武蔵野美術大学空間演出デザイン学科教授
2004年 日本商空間設計家協会 理事、13年より名誉理事
2018年 逝去

 

スーパーポテト

2018年 杉本貴志亡きあと、夫人の杉本 泉が代表取締役に就任
長女で写真家の杉本青子は取締役に就任
現在、制作部門にディレクター4名、デザイナー6名を含むスタッフを抱える
杉本の生前より続くクライアントのみならず、新規の依頼も絶えず、海外7割、国内3割の比率でプロジェクトを手がける

 

杉本貴志

Description

概要

商業施設や店舗の寿命は短い。10年、いや3〜5年といわれるジャンルもある。商業ゆえ、その空間には営利性が追求され、マーケットの動向にデザイン寿命が左右されるためである。杉本貴志は、主に商業空間を舞台に、国内外のバー、レストラン、ホテル、ショップの内装デザインから総合プロデュースまでを手がけてきた。めまぐるしく変わる商空間のデザインにおいて、40年以上、杉本貴志、あるいはスーパーポテトのインテリアデザインとして存在感を示し続けてきたことは日本のデザイン史のなかでもやはり特筆すべきことである。 東京藝術大学の美術学部で鍛金を学び、大学を卒業するとすぐに同級生で大学院に進学していた高取邦和(高取空間計画、88年に独立)と共同でデザイン事務所を立ち上げた。当初の屋号はポテトデザインで、クリエーターのたまり場であった新宿のジャズ喫茶「ダグ」を拠点としていた。73年にスーパーポテトと改め株式会社を設立したが、その前年に、いまや伝説となったバー「ラジオ」をデザインしている。ダグのバーテンだった尾崎浩司によい物件があるので独立してバーをつくったらどうかと紹介し、そのデザインを担ったといういきさつである。従来のカウンターバーはボトルを一面に並べていたが、出会いが生まれる場にしたいとの考えから余分を排し、大きなテーブルカウンターのみとした。低予算だったためデザイン料はウィスキーだったというが、それにより杉本はラジオに度々顔を出すようになる。この新しい考え方の空間は注目を集め、三宅一生、田中一光、山本耀司、安藤忠雄らデザイナーや建築家をはじめ、西武百貨店の代表である堤清二も通い、彼らとの交流がスーパーポテトの仕事につながっていった。何もないところから創造の種をつくり、人と会い、酒や食事を楽しみ、ダイナミックな空間に結実させる、杉本らしさの詰まったエピソードである。
全盛期の西武百貨店、西武グループのデザインディレクターとして各店舗のデザインや立ち上げを担い、無印良品ではコンセプトの構想から空間設計までアドバイザリーとして参画。1986年三宿の「春&秋」は自ら経営する飲食店で、「春秋」として数店舗展開し、飲食店のハードとソフト両面でのノウハウを構築した。1998年グランドハイアットシンガポールにオープンした「メザナイン」は見せるショーキッチンとして大成功し、以後インド、中国などアジアを中心とした海外のホテルからのオファーが舞い込むようになる。
杉本亡きあともスーパーポテトの評価は高く、特に海外からのオファーが絶えることはない。偉大なマエストロが築いたデザイン事務所ではあるが、組織そのものに杉本イズムが受け継がれ、現代社会にしっかり応用されているからだろう。それこそ無形のアーカイブが機能したものであるといえるだろう。

Masterpiece

代表作

ブティック「ワイズ」(1972) バー「ラジオ」(1972) 美術書店「アール・ヴィヴァン」(1975) カフェ「フィガロ」(1975) パーラー「ストロベリー」(1975) 「まる八」(1978) 「ラジオ」改装(1982) 「無印良品」 青山店(1983) 「有楽町西武」(1984) 「春&秋」三宿(1986) 「渋谷西武SEED館」(1986) 「成田ゴルフ倶楽部」(1989) 「春秋」赤坂(1990) 「無印良品」 青山3丁目(1993) ソニーショールーム 「プレイステーション」(1995) グランドハイアットシンガポール「メザナイン」(1998) 「二期」(1999) 「SHUN/KAN」(2002) 「グランドハイアット東京」ウェディングチャペル(2003) 「パークハイアット」 ソウル(2005) 「ハイアットリージェンシー」 京都(2006) 「春秋ツギハギ」(2006) 「無印良品」六本木(2007) 「コレド室町」(2010) 「MUJI HOTEL SHENZEN」深圳(2018)

 

書籍

『春秋―杉本貴志の空間 辻清明の器』六耀社(1993) 『春秋(日本語版)』チャールズ・イー・タトル出版(2004) 『Shunju: New Japanese Cuisine』PERIPLUS EDITIONS(2006) 『Super Potato Design』チャールズ・イー・タトル出版(2006) 『杉本貴志のデザイン 発想|発酵』TOTO出版(2010) 『無為のデザイン』TOTO出版(2011) 『A LIFE WITH MUJI』良品計画(2018)

 

受賞

毎日デザイン賞(1985、1986) インテリア設計協会(1985) 国土交通大臣賞(2001) Restaurant Design of the Year(2001) 空間デザイン機構 KU/KAN賞(2007) Interior Design Magazine Hall NY of Fame Awards (2008) Asia Hotel Award(2013)

 

杉本貴志 作品

Interview

インタビュー

図面よりもラフな手描きのスケッチに
言葉にならないコンセプトがすべて集約されていました。

スーパーポテトのアーカイブとは

 2018年に杉本貴志さんが亡くなられてから、奥様の泉さんが経営を引き継がれています。本日は、杉本さんとスーパーポテトのアーカイブについて、代表の杉本 泉さんとデザイナーの前田慎也さん、そして初期の頃のスーパーポテトのメンバーである飯島直樹さんにお話を伺いたいと思います。 杉本貴志さんは、東京藝術大学を卒業されていますが、どこかに所属することなく、起業されています。その間はどのような活動をされていたのでしょうか。

 

杉本 泉 杉本はどこにも勤めた経験はないんです。藝大の工芸科で鍛金を学んでいましたが、同じく鍛金を学んでいた高取邦和さんと、68年に卒業してまもなく一緒に会社をつくろうということになったのです。最初はポテトデザインと名乗り、デザイン研究所のようなかたちで活動していました。73年に会社として正式に株式会社スーパーポテトを設立しています。それまではアルバイト的なこともしていました。新宿で顔を合わせていた山本耀司さんの「ワイズ」1号店(新宿)は、72年に手がけています。まだ駆け出しの頃ですね。ワイズはこの1号店だけデザインしています。その後、バー「ラジオ」をつくっています。

 

 ポテトデザインにスーパーポテト。「ポテト」には何か意図があったのでしょうか。

 

杉本 大学の課題で、鍛造のジャガイモをつくったことがあるのです。今もその作品は残っています。その頃、ちょうどビートルズが流行っていました。彼らはアップル・レコードやアップル・スタジオなど、アップル・コアと呼ばれた企業体をつくっていて、アップルがビートルズの象徴的なアイコンとなっていました。ビートルズがアップルならば、僕らは鍛金でつくったポテトがあるじゃないかとでも思ったのでしょう。アップルとかポテトを社名に選ぶ、その時代のポップアート的なニュアンスがあったのかもしれません。

 

 それは知られざる一面ですね。杉本さんは、「ラジオ」「まる八」から「無印良品」「ハイアットホテル」まで、デザイン業界を長らく牽引されてきました。ほかにもTOTOギャラリ−・間の設立委員やディレクターを担い、「春秋」を経営するなど、質量ともにすごい仕事を残していらっしゃいます。そのデザインアーカイブとなるような図形やスケッチ、模型、その他はどうなっているのでしょうか。

 

杉本 図面は倉庫で保管していたのですが、今はこの事務所の入り口に出しています。少しずつデジタル化しようとしています。紙の図面のままだと傷んでしまうのでデータに入れ始めましたが、とても手間がかかり大変なので、全部は無理かもしれないと、重要なものから入れるようにしています。 ただ、それぞれのプロジェクトごとのスケッチなどは、まったく残していないのです。プロジェクトが終わるごとに、捨ててしまっていました。模型は少しありますが、昔のは残っていないですね。

 

前田 仕事をこなしながらアーカイブを整理してストックしていくのは大変で、できていませんでした。そもそも模型をつくる目的は、われわれのスタディ用であったりお客様へのプレゼンテーションです。資料としてストックするためのものではなく、それよりもどう完成させるか完成品に重きを置く。イメージや素材を保管することの方があるでしょうか。物件終了後の模型保管はそこまで重要視してきませんでした。ただし図面は保管しています。2000年以降になってから模型の重要性が再認識されるようになり、われわれもできるだけ残すようにはしていますが、風化もしてしまうので保存は難しいです。

 

 杉本さんは手描きの図面なのですか。

 

杉本 昔はすべて手描きしていました。今見ると、すごくきれいです。あと残してきたのは、写真です。

 

前田 杉本の手描きの図面は見たことがなく、アーカイブとして保管されているのは竣工写真が主です。スケッチはありますが、保管されているのはかなり少ないです。
雑誌に掲載されれば記録として残りますし、コンセプトを表したテキストなども残ります。

 

 写真も創業当時はポジフィルムだったかと思います。これも劣化してしまいますので、デジタル化している方も増えていますが、この点はいかがでしょうか。

 

杉本 スーパーポテトの写真は、昔から白鳥美雄さんにお願いしているのですが、白鳥さんからもデジタル化したほうがいい、とは言われているんですが、それはまだできていません。

 

飯島 白鳥さんはいつも4×5で撮っているので、デジタル化すれば、きれいに残せますね。

 

 倉俣史朗さんや内田繁さんはインテリアのほかプロダクトや家具もデザインされています。杉本さんは、プロダクトとして発売したものなどはあるのでしょうか。

 

前田 僕がスーパーポテトに入社した2006年以降では、インテリアの一部として家具や照明を自社で設計することはありましたが、家具やプロダクトだけをつくってくださいという依頼を受けた記憶はないです。

 

飯島 僕が在籍していたのは1976年から85年ですが、当初はインテリアに必要なプロダクトは設計から制作まで自分たちでやらなくちゃいけないことになっていました。高取さんがプロダクトを請け負って、大光電機の照明などをやっていましたね。ただ、バブルの盛りになると忙しくて、それどころじゃなくなった。

 

 無印良品の店舗は、システムとして展開していますが、什器や家具はオリジナルです。とりわけ初期の無印の家具は、空間の一部として重要な要素でもありました。それらは杉本さん自らが寸法を測ったりされていたのでしょうか。

 

前田 初期から現在に至るまで無印良品はその商品数や店舗面積を大幅に拡大してきました。その過程において、家具や什器は規格化を図りながらデザインされてきましたが、杉本自らが詳細に寸法を測って設計したという記憶はありません。担当デザイナーの設計案を見て精査するという流れが主で、たまにスケッチを描いてくれますが、ほとんどは言葉での指示でした。

 

飯島 そういう作業は嫌いだったんだと思います。僕の在籍時も、自分で図面を描く必要はないと割り切っていた。4Bの鉛筆を自分で削って、直感で、殴り書きのようなスケッチを描いていたんです。ジャコメッティみたいな印象のスケッチでした。そこにコンセプトがすべて集約されていました。それを元にわれわれが図面をおこしていくのです。残念ながらそのスケッチは残ってはいないのですが、あれば価値があったことでしょう。

 

前田 建築家やデザイナーは、自分で設計して、自ら寸法を測って図面を描くことが当たり前とされていた風潮があったなか、初期からディレクターのような役割を率先してやってきた、数少ないインテリアデザイナーなのではないかと思います。自分で手を動かすばかりがデザインではない。でもそれが社内で確立するまでは、相当大変だったと思いますが、最初からそういう仕事の進め方をしていたようです。

 

杉本 ラジオは会社設立前なのでほとんど資料がないのです。飯島さん、72年のラジオの図面は、どこにも残っていないんですよね?

 

飯島 そうですね、ただ、1982年にラジオを改装した際の図面のコピーは、平面スケッチ図が僕の手元にあります。それを大学で講義する際に課題として用いたこともあるんです。手描きで、全部、寸法も描いてある。記憶はあいまいですが、僕の文字みたいなので(笑)、僕が描いたのでしょう。何を思ってなのか、コピーして持っていたんです。

 

前田 飯島さんの手元にも図面があるということは、ひょっとしたらスケッチも、紛れてどこかで保存されているかもしれません。

 

杉本 72年のラジオは、エレメントは少なく、天井の付近に張り付いたような照明が印象的なんです。それはこの事務所の入り口に置いています。

 

 

「もの派」という原点

 ざっくりしたスケッチと言葉でスタートするということですが、完成した空間は素材の使い方が独特で、まさにスーパーポテトならではの素材感がありました。使用された鉄材、大きな自然石、巨木の古材、あるいは解体された建物からの古いレンガなどですが、その源泉は何でしょうか。

 

杉本 私は、杉本、あるいはスーパーポテトの原点は、学生時代にあると思っているのです。1960年代後半は学生運動が盛んで社会にも活気があり、アメリカからのポップアートが入って来て注目されていました。一方で、それとは対極にある、ものへの還元から芸術を創造しようとする「もの派」も生まれました。関根信夫や原口典之、榎倉康二は同世代の友人でもあり、大きな刺激を受けていたのです。立方体に油と水を入れて見せ、同じ液体であっても物質が異なることによって受け取る感覚も変わることを示したりしていました。人為的な関与が少ないのに訴えかけてくるアートを見せつけられた。私も藝大で油絵を学んでいたのでもの派に刺激を与えられましたが、杉本もそうだったと推察します。実際に、鍛金をして自分の手で叩いて形にしていましたから、そもそも「モノ」に対する興味が強かったのでしょう。

 

 そのもの派への傾倒もあり、ダイナミックな空間が生まれたのですね。

 

杉本 あのダイナミックさは、性格から来ているのかもしれません。

 

飯島 性格と資質があって、モノに行き着いたというのが出発点でしょう。インテリアデザインを始めた頃は、倉俣さんや内田さんが近くにいたので、競合していくうえでどうしても影響は受けてしまうわけだけど、どこかで遮断しようとしていたように思います。倉俣さんは、モノの匂いを遠ざけようとしたところを、杉本さんは引き寄せようとしていた。それは意識的なことでなく、身体が自然とそうなっていたように見えます。
藝大で剣道部に所属していたんですが、剣道で培われたのか、ゴニョゴニョ考えずに身体がのめり込んで間合いを見極めるような感覚がありました。

 

 今でいうデザイン思考のようなものは実践されていなかった。

 

飯島 それが嫌いで、あまりしゃべりたがらなかったですね。そういった本を隠れて読んでいたようではありますが、そういうノウハウでデザインを構築しろといったことを自分たちに言ったことはありません。

 

 

杉本イズムを継承する

 スーパーポテトは無印やハイアットをはじめ、杉本さん亡きあとも引き続いてプロジェクトを進行されています。時代が進みながらも杉本イズムを生きたかたちで実現されているからだと思います。

 

前田 それはすごく難しいことで、時折、杉本がいたらなんと言うだろうかと考えます。スーパーポテトらしいこと、半歩でも次の何かを感じさせることができているか、と。今は変化が速く、杉本がいた当時から数年でガラッと様相も変わっていたりしますが、それでもスーパーポテトとして最初から杉本がやろうとしてきたことが、今でも大切な価値観のひとつではないかという感覚もあります。
いつでも対極が頭のなかにあり、両極を別の場所から見ながらデザインしていたようにも思えます。対極を見ながら最終地点を考える。同じように、われわれも現代社会の新しい側面も見るけれども、スーパーポテトというデザインの価値は大事にしていくべきだと考えます。図面だけがアーカイブなのではなく、関わった人やデザインすべてがアーカイブであり、杉本が折々で発した言葉とか、当時感じていた感覚みたいなものが、われわれの脳の記憶としてストックされています。それがアーカイブとして生きている。とはいえ、スーパーポテトらしいけれど少し新しいといったことは手探りでもあり、常に悩んでいます。

 

 前田さんにとってのスーパーポテトらしさとは?

 

前田 杉本本人から自身のデザインについて多くを聞いたことはなく、自分の作品のことを公に語るのも本意じゃなかったようです。
スーパーポテト出身の方々はとても多く、それぞれが感じている「らしさ」があると思いますが、僕が感じているらしさのひとつに、モノという物質の裏側というか、歴史や文化、匂い、空気をデザインしていたのではないかということがあります。使い古された材料であっても、経緯や背景、匂い、時代をデザインしたからこそああいうかたちにしたわけで、従来のデザインの手法とは異なります。ディテールにもこだわり、意図して違和感をつくったりしていました。人にとって本質的に何が大切かということを考えデザインしてきたのだと思います。
とはいえ、「らしさ」を一言で言うには難しいですね。はっきりと言えることは、他とは違う、ということだと思います。

 

 何か判断する際に、「杉本さんならばこう言うだろう」と考えることは、前田さんにとっての大きな基準となっていますか?

 

前田 そういうのもありますし、「お前、いつまでもそんなことを言っているんじゃない」と、返されるだろうとも思います。悩みつつタイムアップを迎えることもあります。

 

 

モダニズムに意図して装飾を加える

飯島 スーパーポテトは40年以上活動していますが、初期の10年、その次の10年…と10年単位で変化しています。後半は海外の仕事が中心となり、条件も内容も異なります。僕がいたのは最初の10年で、その当時はいわば「倉俣の呪縛をどう振り払うか」でした。それは、日本中のデザイナーが思っていたことです。倉俣さんに影響されていないと言う人も、どうしたって受けていましたから。杉本さんも、倉俣さんとは違うことを表明したかったはずです。ラジオはシャープなデザインで、一見、倉俣さんと同じカテゴリーに入るけれども、倉俣さんにはない要素を入れています。それは、アール・デコ的な要素です。モダニズムなんだけど、そこに意図して装飾的な感覚を入れる。装飾の表層的なところをヒントにするというのをやっていました。それをコラージュするのをやっていて、それも倉俣さんの怨霊からの脱却みたいなものと思っていました。

 

 ラジオの照明も確かにアール・デコですね。その後、渋谷の「まる八」では、壁や天井をスケルトンにして見せました。

 

飯島 まる八は現在はライブハウスとして使われていて、手前の木のカウンターはまだ残っています。この頃はスケルトン仕上げなどという言葉はまだなくて、工事現場そのままの、仕上げないインテリアデザインは世界中にもなかったはずで、まさにエポックメーキングでした。それ以降、スケルトンのショップがそこかしこに出始めます。杉本さんの考え方は、インスタレーションなんですね。設営的な架構によって気配の空間をつくる。間合いの空間と言ってもいい。まる八は壁に鉄のパイプのルーバーを屏風のようにして設置し、そこに包まれるように客席を配置しています。源平時代の戦場で陣幕を張り、その中で篝火を焚き陣取る武者たち、そんな空間なんですね。

 

 まる八は70年代の作品ですね。80年代に入るとラジオを改装されますが、80年代は経済が活況を呈したこともあり、杉本さんは西武グループをはじめとした、たくさんの店舗を手がけられました。

 

飯島 1975年の美術書店「アール・ヴィヴァン」、カフェ「フィガロ」、各地のショッピングセンター…。独立したてのデザイナーにできたというのがすごいことで、冒険しろと言われてできたものばかりです。あんな奇跡的な時代は二度とないでしょう。西武の各店舗を含む多くのプロジェクトを手がけていました。
そのほか、PASHUやJUNなどファッションブティックも多く手がけましたね。西武は80年代半ばをピークに90年ぐらいまでの関与ですが、西武との仕事の延長上にあるのが現在まで続く無印良品です。後年は次第に西武の要素は薄れ、より大規模なプロジェクトが増えていきます。電通やサントリーと組んだ仕事もありました。

 

前田 90年代後半から2000年は手描きからパソコンへの転換期で、図面の記録としてはよりわかりやすく、保存しやすくなりました。ただその図面からはまったくわからない表現があることがスーパーポテトの特徴です。工業製品を規格通りに組み合わせたような意匠ではなく、この面のこの鉄の表情といったその場に立たないとわからない部分があり、そちらの方が大事だったような気がします。

 

飯島 CAD図面は線だけなので、要素間のヒエラルキーなどなくなりますからね。

 

 そうすると、現場でどう受け取れるか、現場がますます重要ですよね。

 

前田 現場は重要で、大変です。

 

飯島 全部、やり替えになることもありました。

 

前田 80年代までの資本が潤沢な時代は、杉本がひとこと「やり替えだ」と言えば、やり替えが可能になったのでしょう。2000年以降は細かく見積りを取るので、予定外の変更などできません。なんとか打ち合わせで杉本の了解を得ていくのですが、現場で、「そんなことは言っていない」と一掃されることもありました。図面上に残っているのは、寸法と仕上げ、空間の配置ぐらい。一番大事なのは現場の空気で、この点はほかの事務所と異なるところだと思います。強烈でした。

 

 倉俣さんにとってのイシマルのような、材料や施工における御用達はあったのでしょうか。

 

飯島 初期は、藝大の鍛金出身の後輩たちが施工していました。

 

前田 石は、イサムノグチで知られる、香川の和泉正敏さんに依頼していましたね。でも埼玉の小さな鉄工所など発注先は無数にあり、どこかに一任するというものではなかったです。

 

 86年にご自身で経営する「春&秋」を三宿にオープンさせます。お仕事を振り返ると飲食店が多いようですが、それは食に対するこだわりが功を奏したのでしょうか。

 

杉本 確かに食べ物もお酒も好きで、飲食店はたくさん手かけました。学生時代から居酒屋に入り浸って、いろいろな居酒屋を知っていました。その時に勉強したことが、デザインにも春秋のプロデュースにも生きたのではないかとよく言われたようです。

 

 

ハイアットホテルと無印良品

飯島 1998年、グランドハイアットシンガポールのリニューアルを担当し、「メザナイン」というレストランをデザインします。高級フードコートの先駆けで、商業的にも大成功したプロジェクトです。高級ホテルの500坪もの空間に同じデザインで屋台がいっぱい並んでいるという、それまでのホテルの飲食では考えられないようなデザインを実現させました。高級なんだけど、現象的には台湾や香港の街並みにみられるガチャガチャしている屋台の食べさせ方と同じです。みんなで一緒に食うという、これも新宿で飲んだくれた経験がベースで生きたと思います。もともと、フランス料理のようにひとり一人に皿を運ぶスタイルは好きではなく、庶民が集まって賑やかに食べることに興味があった。それが、ヨーロッパの人にとっても案外、心地よいものだったので受け入れられました。

 

 そうした新しい提案は、クライアントからスムーズに了承を得られるものなのですか。

 

前田 ああじゃない、こうじゃない、と議論することは多いです。デザイナーは原則として施主を満足させるために仕事をしますが、必ずしもそれがいい空間をつくることに直結しているとは限りません。
僕らはすでに有名なスーパーポテトとして入社していますから、みな、作品をつくっているという意識を半分は持っていたように思います。杉本だからこういう空間をつくる。そのために、中間にいるデザイナーがクライアントの持つイメージとのギャップに折り合いをつけるのです。いろいろ議論しても、最後は「いいね」となればそれでよくて、杉本はその到達点に持っていくのがすごくうまい人だと感じました。

 

杉本 ハイアットホテルはシンガポールの前に96年のグランドハイアット福岡で一部を担当しており、そこからのつながりでした。メザナインの成功以降は、ハイアットグループのほか、シャングリラグループ、MGMグループなど、海外のホテルグループの仕事が多くなりました。成功事例があるので、思う存分やらせてくれるようになったようです。

 

 いまや、ハイアットという高級ホテルでのスタイルを確立されました。無印の場合は、どうでしょうか。

 

前田 無印はブランドをつくるところから携わっているので、杉本にとってはライフワークそのものだったように思います。

 

杉本貴志 作品

「MUJI HOTEL SHENZEN」深圳(2018)

 

飯島 西武百貨店の仕事は、田中一光さんを抜きに語れません。田中さんは杉本さんをかわいがっていました。またその中心には、堤清二という絶対的な磁力を持つ存在があった。同時代の倉俣さん、内田さんではなく、なぜ杉本さんを選んだのかと聞かれることがありますが、堤さんはデザインにも口を出す人で、倉俣さんとはそりが合わなかった。内田さんは、モダニズムのアイコンであるグリッドを意図的にデザインに用いていて、それに対し堤さんが否定したため反発しあったというのを聞いています。
結果として、田中一光さん、小池一子さんとで、「無印」と「良品」をくっつけるというコンセプトのところから議論してつくりあげました。無印とは、ノーブランドです。ブランドの流行に対する反感を深いところで、いわば資本主義の裏側の側面にくらいつくような感覚で挑んでいて、それとポテトがやっていた古い材料を寄せ集めた表現がうまく重なったのです。背中に背負っているのはモダニズムなんだけど、モダニズムじゃない価値観はないのか。寄せ集めてブリコラージュするというのがヒントだった。そこにオルタナティブが生まれる。そんな感覚と無印のコンセプトが根底で、深いところでつながったのです。だから、今に至るまで、無印の考え方は変わることなく、受け継がれているのでしょう。

 

 杉本さんには、今の時代が見えていたかのようですね。

 

飯島 でもあの人が理論的にそれを追究していたかというと、そうは見えない。強靭な直感で時代に食らいつく、そんな感じでした。直感を邪魔する既成の価値概念は不要で、例えばまる八のテーブルは既成の家具のカテゴリーには入らない。4Bの鉛筆で殴り描きのようなデッサンがあり、それを僕らがテーブル状に図面化する。木材は探しましたね。アカマツです。デザインしないほどいい、と言う。それ自体を提示する、それ以外は消したい。家具らしくしたくない、いわばデザインのもの派なんですね。

 

前田 無印が企業として成長するために、アドバイザリーメンバーとして初期から名を連ね、育て親の一人みたいな存在だったと思います。空間はもとより、空間関連ではない商品開発の報告会にも参加していました。その際は、「これのどこが無印なの」と、若い社員にズバズバ指摘する。みな、そう言われるのが一番怖いと、ものすごく緊張したそうです。
青山の一号店から無印が世間の話題になったのは、商品のコンセプトと空間のコンセプトが寄り添っていて、店舗としての説得力があったからでしょう。それまでは商品にならなかったような割れたシイタケと端材を利用した空間がマッチしていた。当時の意匠はなくなってしまったけれど、無印の店舗デザインはそれほど大きくは変わっていません。それこそ、一子相伝のようにその時代の担当者が打ち合わせで決めていったことが受け継がれています。

 

杉本 三軒茶屋の無印は、当時のまま残っています。

 

前田 杉本は、賑やかなコミュニケーションの場というのが好きでしたが、空間の主役は人だと考えていたのではないでしょうか。でも多くは語らない人で、打ち合わせをしながらも、「全然違う」とかは言うけれど、「いい」とは言いません。何も言わなければ、進められるということ。そしてめちゃくちゃ、決断が早いんです。寸法とかはこちらが考えればいいことなので、ここに何かがあるというスケッチさえあればいい。それが、ドンピシャにはまるんですね。

 

 最初から到達点が見えているんですね。

 

前田 そのような視点があったと思いますが、ただしそれはどんどん変化していきます。その都度、すごいスピードでズバズバやっていく。すごい直観力だと思いました。

 

 その直感力はどうやって磨いていたのでしょう。

 

杉本 それは、はっきりとはわからないけれど、読書はものすごくしていましたね。あと旅行も行きました。判断の早さで言うと、プロジェクトの終わり頃になると、よく現場に観に行っていました。晩年の仕事で17年のゴルフ場「The Royal Golf Club」でも、現場で「照明の高さをあと3センチ下げろ」とか、「ここに木を入れろ」とか指示していました。ほんのちょっとの差ですが、明確な指示を出すのです。

 

 ここまでのお話で、杉本さんのお仕事の神髄は、図面や言葉として残すというよりも、質感やそのときの空気感のようにアーカイブとしては残りにくいものであり、だからこそ人から人へつないでいく形のないアーカイブが重要であるとわかりました。

 

飯島 図面は大事じゃないんです。単なる記号だから。大事なものはそこにないので。

 

前田 だからか、当時は本人も保管ということにまったく意識がいっていなかったように思えます。

 

杉本 毎回、毎回、新しくつくっている最新プロジェクトが一番いい、という考えだったのだと思います。

 

 一方で、ざっくりしたイラストや言葉で指示するだけで、あとはスタッフに任せてきたのも杉本さんです。杉本学校とも形容され、飯島さんをはじめ、橋本夕紀夫さん、佐藤一郎さん、黒川勉さん、村松功勝さんら、たくさんのデザイナー、建築家を輩出しています。謎を投げかけながらあとは任せるという方法が、人を育てたのではないでしょうか。それが、スーパーポテトの見えないアーカイブが形成できたノウハウだったのかもしれません。本日はありがとうございました。

 

 

 

杉本貴志さんとスーパーポテトのアーカイブの所在

問い合わせ先

スーパポテト https://superpotato.jp/ja/profile/