日本のデザインアーカイブ実態調査
DESIGN ARCHIVE
Designers & Creators
原 研哉
グラフィックデザイナー
インタビュー:2025年7⽉30⽇ 11:00〜12:00
場所:株式会社⽇本デザインセンター
取材先:原 研哉さん
インタビュアー:関 康⼦、⽯黒知⼦
ライティング:⽯黒知⼦
PROFILE
プロフィール
原 研哉 はら けんや
グラフィックデザイナー
1958年 岡⼭県⽣まれ
1981年 武蔵野美術⼤学 造形学部基礎デザイン学科 卒業
1983年 同⼤学⼤学院 造形研究科デザイン専攻 修了
1983年 ⽇本デザインセンター⼊社
1992年 同社内に「原デザイン研究所」設⽴、以後同研究所主宰
2003年 武蔵野美術⼤学 基礎デザイン学科 教授就任
2014年 ⽇本デザインセンター 代表取締役就任
Description
概要
デザインとは、単にモノをつくることではなく、社会の中にすでにある関係や⽂脈を⾒出し、編集し直す⾏為である——原研哉はそう考える。⽇本デザインセンターを拠点に、無印良品のアートディレクションをはじめ、「RE-DESIGN」「HAPTIC」「HOUSE VISION」といった展覧会を通して、デザインの領域を横断的に拡張してきた。
その転換点となったのが、2000年TAKEO PAPER SHOWの「RE-DESIGN─日常の21世紀」展である。優れたクリエイターによって再設計された⽇⽤品は、斬新な切り⼝を⽰しつつも、むしろ⽇常にあるデザインの完成度を浮かび上がらせた。結果として、企画そのものが反転した。そこから原の関⼼は、「つくる」ことから「気付く」ことへと軸足を移していく。
「RE-DESIGN─日常の21世紀」(2000)、「HAPTIC─五感の覚醒」(2004)、「SUBTLE─かすかな、ほんのわずかの」(2014)、「PACKAGING─機能と笑い」(2023)と続くTAKEO PAPER SHOWは、世界各地を巡回し、国際的に大きな影響を与えた。
展覧会や空間といった、形として残りにくい仕事を多く⼿がけてきた経験から、原はアーカイブを単なる保存ではなく、「編集」する資源と捉える。書籍化や再構成された展覧会によって、時間を経て意味が⽴ち上がるかたちで仕事を残していく。その実践は、『デザインのデザイン』(2003)をはじめとする著作にも結実している。
また無印良品においては、「これでいい」という思想のもと、強い造形や主張ではなく、余⽩や透明性によって⽣活の質を静かに整えるデザインを提⽰してきた。個々の製品ではなく、全体を包む空気を設計するという態度は、ユーザーのリテラシーを育み、感受性や欲望そのものに働きかける試みでもある。
原は、⽇本列島を⾒直していくプロジェクトを、低く⾶んで⾼解像度で⾒るという姿勢になぞらえて「低空⾶⾏」と名付けている。⾃⾝の仕事も、即効性や購買に直結するインパクトではなく、あるべきかたちに「なっていく」デザインを⽬指している。その営みは、⽂化を厚くし、未来の産業をゆっくりと深部から醸成していくプロセスでもある。
Masterpiece
代表作
展覧会
TAKEO PAPER SHOW(*1)「RE-DESIGN─⽇常の21世紀」(2000)、同「HAPTIC─五感の覚醒」(2004)、同「SUBTLE─かすかな、ほんのわずかの」(2014)、同「PACKAGING─機能と笑い」(2023)、「JAPAN CAR─飽和した世界のためのデザイン」(2009)、「HOUSE VISION」展(2013–)(*2)、「新先史時代─100の動詞」展(アンドレア・ブランツィと共同) ミラノ・トリエンナーレ(2016)
*1 TAKEO PAPER SHOWとして開催され、世界各地を巡回し、国際的に大きな影響を与えた展覧会シリーズ。
*2「JAPAN CAR─飽和した世界のためのデザイン」はロンドンを皮切りに国内外を巡回。「HOUSE VISION」は、「家」を社会や産業の交差点として捉え直し、企業と建築家、クリエイターが協働して未来の可能性を提示する展覧会として、東京、北京、ソウルで4回開催された。
万博・オリンピック関連デザイン
長野オリンピック 開・閉会式プログラム(1998)、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)(2005)、「BLUE OCEAN DOME」総合プロデュース(2025年日本国際博覧会〈大阪・関西万博〉)(2025)
アートディレクション
無印良品(2002–)
総合プロデュース
外務省「JAPAN HOUSE」(2017–)
ブランディング/VIデザイン
松屋銀座、森ビル、蔦屋書店、GINZA SIX、ミキモト、ヤマト運輸、小米(Xiaomi・中国)、吾汝|ATONA
プロジェクト
「低空飛行─High Resolution Tour」(2019–)
主な個展
「原研哉 グラフィックデザイン展」デザインギャラリー1953/東京(1992)、「原 研哉展」ギンザ・グラフィック・ギャラリー/東京(1994)、「Kenya Hara Poster Exhibition」ポズナン市立ギャラリー/ポーランド・ポズナン(2000)、「Kenya Hara Poster Exhibition: Graphic Intensity in Mid-Tones」国際交流基金トロント日本文化センター/カナダ(2001)、同巡回展 トマス・ホセ・チャベス・モラード美術館/メキシコ・グアナフアト(2001)、同巡回展 国際交流基金サンパウロ日本文化センター/ブラジル(2001)、「原研哉『編集された仕事』」クリエイションギャラリーG8/東京(2001)、「原研哉『編集された仕事』」三菱地所アルティアム/福岡(2002)、「KENYA HARA Exhibition」香港デザインセンター/香港(2002)、「KENYA HARA Exhibition」日本美術技術センター/ポーランド・クラクフ(2003年頃)、「『白』原研哉展」ギンザ・グラフィック・ギャラリー/東京(2008)、「原研哉デザイン展『本』 友人、原田宗典がモノ書きだったおかげで。」武蔵野市立吉祥寺武術館/東京(2009)、「DESIGNING DESIGN―原研哉2011中国展」北京センター・フォー・ジ・アーツ(天安時間当代芸術中心)/北京(2011)、「DESIGNING DESIGN―原研哉中国展・上海」上海証大当代芸術空間/上海(2012)、「DESIGNING DESIGN 中国巡回展」歌華営地芸術中心/秦皇島(2012年頃)、「KENYA HARA GRAPHIC DESIGN EXHIBITION 原研哉展」オリエンタルデザインギャラリー/広島(2017)、「Make the Future Better Than Today」ポズナン国立博物館/ポーランド・ポズナン(2023)、「DRAW―原研哉は描いている」京都dddギャラリー/京都(2026)
⾃著(国内刊⾏)
『ポスターを盗んでください』新潮社(1995)、『マカロニの⽳のなぞ』朝⽇新聞社(2001)、『デザインのデザイン』岩波書店(2003)、『デザインのデザイン Special Edition』岩波書店(2007)、『⽩』中央公論新社(2008)、『ポスターを盗んでください+3』平凡社(2009)、『⽇本のデザイン─美意識がつくる未来』岩波書店(2011)、『デザインのめざめ』河出書房新社(2014)、『⽩百』中央公論新社(2018)、『低空⾶⾏─この国のかたちへ』岩波書店(2022)、『DRAW』美術出版社(2024)
共著(国内刊⾏)
『SKELETON─原研哉 佐藤卓パッケージデザイン集』六耀社(1995)、『建築とマカロニ』TOTO出版(1995)、『RE-DESIGN─⽇常の21世紀』朝⽇新聞社(2000)、『デザインの原形』六耀社(2002)、『ggg Books 58 原 研哉』ギンザ・グラフィック・ギャラリー(2002)、『HAPTIC─五感の覚醒』朝⽇新聞社(2004)、『FILING─混沌のマネージメント』宣伝会議(2005)、『なぜデザインなのか。』平凡社(2007)、『TOKYO FIBER ‘07 SENSE WARE』朝⽇新聞社(2007)、『TOKYO FIBER ’09 SENSE WARE』朝⽇新聞出版(2009)、『JAPAN CAR─飽和した世界のためのデザイン』朝⽇新聞出版(2009)、『碗⼀式─使う漆器へ』実業之⽇本社(2010)、『MUJI BOOK』良品計画(2010)、『HOUSE VISION─新しい常識で家を作ろう』平凡社(2012)、『HOUSE VISION 2013 TOKYO EXHIBITION』平凡社(2013)、『⽝のための建築』TOTO出版(2013)、『SUBTLE─かすかな、ほんのわずかの』⽵尾 (2014)、『素⼿時然』良品計画(2015)、『HOUSE VISION─分かれてつながる、離れてあつまる』美術出版社(2016)、『HOUSE VISION 2 2016 TOKYO EXHIBITION』美術出版社(2016)、『Ex-formation』平凡社(2017)、『GALAPAGOS Photographs』良品計画(2018)、『掃除』良品計画(2020)、『MUJI BOOK 2』良品計画(2020)、『原研哉の仕事』(デザインノートBOOK)誠⽂堂新光社(2021)、『PACKAGING─機能と笑い』美術出版社(2023)、『瀬⼾内デザイン会議─1 この旅館をどう⽴て直すか 2021 宮島篇』CEメディアハウス(2022)、『瀬⼾内デザイン会議─2 海の上は可能性の坩堝 2022 フェリー篇』⽇経BP(2023)、『瀬⼾内デザイン会議─3 地域開発の毒と薬 2023 倉敷篇』⽇経BP(2024)、『瀬⼾内デザイン会議─4 海のシナリオ 2023 尾道・福⼭篇』⽇経BP(2024)、『瀬⼾内デザイン会議─5 ⽬標のリセット 2024 瀬⼾⽥篇』⽇経BP(2025)、『BLUE OCEAN DOME─海と話そう。』ZERI JAPAN(2025)
受賞歴
毎日広告デザイン賞 特選三席:サントリーワインレゼルブ(新聞広告)(1984)、毎日広告デザイン賞 特選二席:キリン缶ビール(新聞広告)(1985)、デザインフォーラム’87 銅賞:ワコールカレンダー1987(1987)、デザインフォーラム’89 金賞:演劇ポスター「箱の中身」(1989)、JAGDA新人賞(1990)、東京ADC賞:竹尾ペーパーワールド’90(ポスター)(1990)、東京ADC賞:竹尾ペーパーワールド’91(ポスター)(1991)、講談社出版文化賞ブックデザイン賞:『ポスターを盗んでください』(1996)、日本文化デザイン賞(1996)、アジアパシフィックポスターデザイン展ポスター賞:「MUSUBI」ポスターシリーズ(1997)、ニューヨークADC 海外展特別賞:「im product」カタログ(1998)、サインデザイン大賞 通商産業大臣賞:梅田病院 サイン計画(1998)、全国カタログポスター展 通商産業大臣賞:竹尾ヴァンヌーボ見本帳(1999)、全国カタログポスター展 通商産業大臣賞:EXPO 2005 ポスター(1999)、全国カレンダー展 内閣総理大臣賞:EXPO 2005 カレンダー(1999)、東京ADC賞 原弘賞:『RE-DESIGN』『紙とデザイン』(2000)、ICSID Excellence Award、ICOGRADA Excellence Award:「RE-DESIGN」展(2000)、毎日デザイン賞:Takeo Paper Show 2000「RE-DESIGN」展、『紙とデザイン』書籍および展覧会のアートディレクション(2000)、亀倉雄策賞:「紙とデザイン」ブックデザイン(2001)、東京ADC賞 グランプリ:無印良品「地平線」キャンペーン(2003)、サントリー学芸賞:『デザインのデザイン』(2004)、CSデザイン賞 サイン部門 金賞:長崎県立美術館 サイン計画(2006)、SDA賞 サインデザイン最優秀賞:NICOLAS G. HAYEK CENTER 映像サイン計画(2008)、SDA賞 サインデザイン最優秀賞:WAVING INFORMATION(2008)、SDA賞 サインデザイン大賞・経済産業大臣賞:WATER LOGO(2008)、日本パッケージデザイン大賞 金賞:代官山蔦屋書店 VIデザイン(2013)、JAGDA賞 環境・空間部門:HOUSE VISION 2013 TOKYO EXHIBITION(2014)、D&AD Yellow Pencil:Pierre Hermé「Ispahan」パッケージ(2014)、Wallpaper* magazine Top 20 graphic designers “King of Simplicity”(2015)、New York Festivals World’s Best Television & Films Gold World Medal、Silver World Medal:シンガポール制作ドキュメンタリー「Creative Hero」(原研哉出演)(2015)、JAGDA賞 環境・空間部門:みんなの森 ぎふメディアコスモス(2016)、日本サインデザイン賞 サインデザイン最優秀賞:みんなの森 ぎふメディアコスモス サイン計画(2016)、全広連日本宣伝賞 山名賞(2016)、グッドデザイン・ベスト100:HOUSE VISION 2 2016 TOKYO EXHIBITION(2017)、Newsweek Japan「世界が尊敬する日本人100人」Rest of the Best(2019)、全国カレンダー展 日本印刷産業連合会 会長賞・第1部門 金賞:モリサワ 2020年企業カレンダー(2020)、Jan Lenica Award Laureate(2020)、東京ADC賞 ADC会員賞:無印良品「気持ちいいのはなぜだろう」キャンペーン(2020–21)、Cannes Lions International Festival of Creativity Brand Experience & Activation Lions Bronze Lion:無印良品「気持ちいいのはなぜだろう」キャンペーン(2020–21)、DFA Lifetime Achievement Award(2023)、紫綬褒章(2024)、Compasso d’Oro:SUWARI(2025)、グッドデザイン・ベスト100:大阪・関西万博民間パビリオン ブルーオーシャン・ドーム(2025)
Interview
インタビュー
アーカイブに必要なのは「残す」ではなく、「編集」すること
先⼈たちとの違いを意識してきた
ー 原さんは⽇本デザインセンターの代表であると同時に、社内に独⽴した原デザイン研究所を拠点に活動されています。まず、組織に蓄積されたアーカイブと、原さん個⼈の仕事の記録をどのように残していくのか、伺えますか。
原 ⽇本デザインセンターとしては、作品集に加え、この20年ぐらいは、作品を検証しデジタルアーカイブとしてデータを保存しています。ただ、例えば動画やモーショングラフィックのように動きやインタラクションが⼤事な作品や、プロジェクト全体として意味を持つものも増えているので、どう残すのがよいのか課題はあります。
ー ⽇本デザインセンターはこれまで⻲倉雄策、原弘、⼭城隆⼀、⽥中⼀光、永井⼀正、横尾忠則…と、きら星のごとくトップデザイナーを輩出してきました。膨⼤なアーカイブなのではないですか?
原 その通りですが、在籍しながら個⼈として会社からはみ出して活動した作品はアーカイブには含まれないし、横尾忠則さんにしても、在籍時の仕事は多くはない。会社全体で⾒てもそれほど膨⼤な作品群になるわけではありません。
ポスターのように定型のものは、⽐較的アーカイブをつくりやすいでしょう。永井⼀正さんは、96歳になっても毎年3枚ポスターをつくり続け、分厚い作品集を何冊も残しました。その真ん中あたりを開くと、当時65歳くらいの作品が載っていたりするわけです。⻑きにわたる作品の流れを⾒ると、僕はまだ半分なんだな、と。アーカイブは、未来の⼈たちがそれを辿ることによって、ヒントを得たり、仕事を反芻したりすることができます。
ー なるほど。グラフィックデザイナーのアーカイブは他のジャンルより充実していますが、それは作品が残しやすいのと同時に、活⽤しやすさも影響しているのかもしれません。
原 僕も初期の頃はポスターもつくりましたし、グラフィックデザインは僕のルーツです。しかしながら、永井さんからは「原くんと僕はずいぶん違うよね」と⾔われていましたね。実際に、その違いを意識しながら仕事をしてきたところもあります。
先⼈たちが耕して道を作り、スポーツカーやバイクで疾⾛して来た道路を、僕らの世代はいったん降りて、野原を歩き始めたんですね。エキシビションをメディアと捉えたり、「横断的」という表現が今では古くさく感じられるほど、領域にはとらわれずに歩いてきました。デザインは領域に分けられない、ひとつなのだと考えて取り組んできた。グラフィックもパッケージも空間もプロダクツも、同じ視野に⼊れて考えてきたところがあります。結果として、プロジェクトが多岐にわたってきました。
デザインの仕事は、やりっぱなしでは終わらない
原 展覧会や空間のプロジェクトは、記録の仕⽅が難しいですね。展覧会は、物理的な展開性に意味がありますから。スペースの捉え⽅が重要だし、什器もデザインする。そういうものをそのまま保存しておくことは現実的ではないし、時間が経てば展⽰物は劣化してしまう。古くなった展⽰物をもってきて再現しても、しおれてしまっていては意味をなさないわけです。
ー そのまま使えるアーカイブには、なりにくいのですね。
原 単にモノとして残すのではなくて、どう編集して資源化しておくかという発想が必要になってきます。つまり、書籍にするか、展覧会のデータを再編集できるようにしておく。これまで「⽵尾ペーパーショウ」など、企画した展覧会は、巡回しやすいように設計したり、書籍化したりしてきました。今は⾃分⾃⾝の仕事を再編集する展覧会を考え始めています。展覧会という形で表現したものは、ある意味で再現性があります。そこでもう⼀回⾃分の仕事を編集し直せる。
それがアーカイブと呼べるものかどうかはわかりませんけれども、⾃分の仕事を編集して、何らかのかたちで記録していくことができれば、アーカイブと⾔える⾜跡のようなものは残せるかもしれない。そういうことは考えています。
ー デジタルデータの危うさという問題もありますね。フロッピーディスクが消えたように、デジタルは意外と残らない。
原 そう。使い勝⼿がいいようで失われやすい。だからやはり、印刷されたものとして 残していくことも必要かとは思っています。
ー 実際に数多くの書籍を上梓されています。
原 スイスの出版社Lars Müller Publishersから本を出そうと声がかかり、代表のラース・ミュラーと話をしたときに「作品集の時代はもう終わった。もしやるなら、あなた⾃⾝が著者でなければならない」と⾔われたんです。ちょうど『デザインのデザイン』を書いた直後だったので、そのテキストを英語にして、⾃分の作品や展覧会の記録を挿⼊する形でまとめました。結果的にそれは多⾔語で翻訳され、世界中で読まれています。印刷物として残すことの強さを実感しています。
ー 再編集するのですね。
原 デザインの仕事というのは、やりっぱなしでは終わらないからです。やったばかりだと⾒てもらいたい気持ちが先⾛る。でも時間を経てもう⼀回、新しい仕事と古い仕事を再編集していくと、当初は⾒えなかった意味や意義が、相対化されることで浮かび上がってくるんです。僕はまだ永井さんの半分の地点と⾔いましたが、それでもだんだんと凝縮感が⾼まってきているわけです。 本にしたり展覧会にしたりすることを繰り返していくと、そこに何か、⾒えてくるものがあるのではないかと思っています。
RE-DESIGN
優秀な才能が挑戦しても、⽇常のものを超えられない真理
ー 永井さんの⾔葉と同様に、⽣前取材した仲條正義さんも、「⾃分たちの世代は、こういう製品ができるから、かっこいいパッケージをつくってほしいと頼まれたけれど、原さんや佐藤卓さんら1950年代⽣まれのデザイナーは企画から頼まれていて全然違う」、と表現されていました。原さんの世代は舗装された道路を降りて新しい地平を探ってきたパイオニアだと感じますが、原さんのなかでのきっかけは何ですか?
原 2000年の⽵尾ペーパーショウ「RE-DESIGN─日常の21世紀」展ですね。⾃分のなかでの句読点になっています。そもそもの仮説が完全に覆されてしまった。この企画は当初、優れたクリエイターが⽇常のものを再設計すれば、既存のものを超えられるだろう——そう思って始めたわけです。
坂茂さんにトイレットペーパーを、佐藤雅彦さんに出⼊国スタンプを、隈研吾さんにゴキブリホイホイを、⾯出薫さんにマッチを、津村耕佑さんに紙おむつを、深澤直⼈さんにティーバッグを…、という感じで多数の⽇⽤品を「リ・デザイン」してもらいました。四⾓いトイレットペーパーをはじめ、それぞれすばらしいデザインだったけれど、四⾓いトイレットペーパーをいざ製造ラインに乗せると切れてしまったり、できたものがおもしろすぎて予想外に早く飽きられたりしてしまった。
つまり、世の中のあらゆるものはすでにデザインされていて、そのなかで⽣き残ってきた強者が現在に残ってきているのだと気付かされた。それらは誰か突出した才能がデザインしたのではなく、「なってきた=Becoming」デザインなのだと、痛烈に思い知らされたわけです。結果的にこれは、優秀な才能が挑戦しても、ごく普通に⾒えるコップのようなデザインを乗り越えられないことを表現する展覧会になってしまった。それは衝撃的なことで、それから、デザインに対する考え⽅が変わりました。
それまでは、「ワオ、すばらしい!」と評価されるのがデザインの役割だと思っていたけれど、そうではなく、知らないうちに選択されていくこと、⻑く時代の中で機能し続けることを意識するようになりました。その頃、無印良品の仕事も始まっていたので、⼀層強く、そういうことを考えるようになりました。根底から考え⽅を覆していくことによって、初めて⾒えてくるものがあると気付いたのです。



TAKEO PAPER SHOW「RE-DESIGN─日常の21世紀」展(2000)
マルチファセッツに世界を⾒る
「HAPTIC」から「HOUSE VISION」へ
ー そうして前提を⾒直し、覆し、潜んでいた何かを発⾒し、⾔語化されてきました。どのようにして、それを⾒出しているのでしょうか。何かゴールを設定されているのですか?
原 領域に関係なく仕事を引き受けていくと、そこからどんどん広がっていくんですよ。エキシビションもパッケージも、ブランドのVIも、書籍のデザインも、住空間のデザインも依頼されるようになる。ジャグラーみたいに、⼿に持っているのは数個のものだけど、空中に常に100以上の仕事が浮かんでいるような状態です。結果としてマルチファセッツ(多⾓的)に社会との接点ができてくるので、必然的に⾒えてくる景⾊が変わります。僕に限らず、現代のデザイナーの宿命は、そうなっていると思います。
多くの領域の仕事を凝縮して、書籍にしたり振り返ったりするなかで、無駄なものや余分なものも⾒えてくるのです。現代社会はITによる「テクノロジー・ドリブン」によって、視覚・聴覚に情報が集中し、結果として他の感覚に鈍感な⼈間が増えていってしまった。そこで、⼈間がものを感じたり、感知したり、⼼地よかったりするのはどういうことかを集中して考えたのが、2004年の⽵尾ペーパーショウ「HAPTIC─五感の覚醒」展でした。
ー ⽵尾ペーパーショウでは度々、⾰新的なテーマを提⽰されてきました。この「HAPTIC─五感の覚醒」展では、紙を環境を形成しうる未来的な素材として⽰し、⼤きな話題となりました。
原 ハプティックとは「触覚をぞくぞくさせる」というような意味ですが、ドイツで「和紙を触った感じはハプティックだ」と⾔われたことがヒントになりました。当時、持っていた辞書には載っていない単語だったけれど、ウェブサイトで検索すると感覚研究のテーマとして注⽬されていた。「テクノロジー・ドリブン」から「センス・ドリブン」の発想がこの展覧会の根底にあります。ですから、参加クリエイターには「フォルムから⼊らないで」「いかに触覚をゾクゾクさせるかを第⼀のモチベーションにしてほしい」と依頼しました。
ー 「HAPTIC」での気付きは、2013年より始まるプロジェクト「HOUSE VISION」へつながります。少⼦⾼齢化やエネルギー対策を踏まえた新しい常識で家をつくろうと、建築家らと原⼨⼤の家を提⽰し、情報技術を含むこれからの暮らしを可視化していくプラットフォームとなりました。2016年には規模を拡⼤して東京で開催し、38,000⼈の来場者で賑わいました。さらに2018年には中国・北京で、2022年に韓国・ソウルでも開催されました。
原 そもそも僕は建築が好きで建築家とも多く仕事をしてきましたが、建築家というのはあふれる才能の成せる技でしょうが、建築の可能性を探訪するプロジェクトになっている事例が多々あります。一方で、住宅は⼈間にとって重要なものなのに、その地味で本質的な部分は太古の昔からさほど進化していません。むしろ現代のマンションの⼀室よりも、竪⽳式住居の⽅が豊かかもしれない。
⼈が暮らす住宅は、いわば産業の交差点です。通信・移動・物流・医療・コミュニティ、ロボティクス、伝統…、さまざまな要素が交わり、融合している場が家だと考えると、現在の住宅の機能はまだ単なる住宅の範囲を出ていない。そして、斬新な「家」を提案できるのは、建築家だけではないと思ったわけです。産業的な⽬で「家」を⾒直すと、全然違うものになることを提案したかったんですね。
しかし、ことコンピューティングに関しては、⽇本は「オセロのコーナーストーン」 であるところのOSや AI をつくれていないので難しいところはありますが、「家」も大事なコーナーストーンのひとつだと思うのです。これからも、より発展したかたちで「HOUSE VISION」を提⽰していきたいと考えています。いつかミラノサローネのような⼤きなイベントになりうるとも思います。これまで国内外で4回展覧会をやりましたが、⾃分なりにそこから得たものがあるし、そうした問題提起へと活動の⽬的が移っています。
建築家じゃない視点で住宅を⾒る必要性が社会の中に⽣まれてくると予測し、企画しました。狙ったところまではまだ成果は実っていませんが、ここから得た知⾒は今後、⽣かせると思っています。凝縮し反芻し、次にどういうかたちに編集するか、アーカイブとして活⽤したいとも考えます。



TAKEO PAPER SHOW「HAPTIC─五感の覚醒」展(2004)
HOUSE VISION展(2013–)。建築家や企業とともに、これからの住まいを原寸大で提案するプロジェクト。
「低空⾶⾏」で未来をつくる
ー お話を伺っていると、⽇本デザインセンターという組織にいるからこその⾃由を得ていらっしゃるように感じます。⿃瞰的にものごとを捉えていらっしゃいます。
原 33歳の時、⼀度は独⽴しようとしたんです。でも「デザインセンターの中で独⽴すればいいじゃないか」と引き留められました。聞いたときには何を⾔われているのか、ピンとこなかったけれど、やがて腑に落ちました。
ここは学校みたいなところのある会社です。⽇本デザインセンターの中に独⽴した研究室を持つということは、会社から仕事を割り振られるのではなく、外から⾃分に来た仕事だけをすることになるのですが、収⽀はガラス張りです。だから黒字であれば、何をやってもいいのです。もし僕がフリーランスだったら、経験を積んで⼤きな売り上げを取れるようになると、それを減らすのが怖くなるかもしれない。でもここに属していれば、そういう余計な気を使わない。僕の給料は固定なので、その仕事が⾃分にとって有意義かどうかということに興味が集中していく。そういう意味での⾃由さはあると思います。結果的に、僕の仕事場は3分の1くらいがしっかり収益になる仕事で、残りはほぼ儲からない仕事になりました(笑)。でも、そのバランスだから、やるべき仕事に時間を使えるんです。
ー 意味のある仕事とは、お⾦にならなくてもおもしろそうな仕事ということですか?
原 なんでこんなことをやっているのか、わからないことをやっています。でもそれは、未来をひらく仕事だと直感しているんです。その⼀例が「低空⾶⾏」というウェブサイトです。2019年、コロナが蔓延する少し前から始めました。僕は海外で仕事をすることも少なくはないですが、外に⾏けば⾏くほど、⽇本は特殊であり、おもしろいと感じるんです。だから「こんな⽇本はいかがですか」と、列島の上を低く⾶んで⽬をこらすような視点で選りすぐりのスポットを紹介しようと思ったのです。⽇本の、これは、と思うホテルや旅館、あるいは⾒応えのある場所や施設を取材することを⽬標に、これまで70カ所以上訪ねています。写真と映像を⾃分で撮り、編集し、紀⾏⽂を書いてきました。
「低空飛行─High Resolution Tour」(2019–)。日本列島を低く飛び、高解像度で見つめ直すプロジェクト。
原 そうすると、なんとなく⽇本列島の中に⼟地勘ができてきて、知床でも沖ノ島でも、⼤体その⼟地の⾵⼟に⾒当がつくようになってきた。どこにどれほどの宿泊施設があり、どこが未開発で、何がおもしろいのか、どういうルートの旅をつくると⾯⽩いのかが、⾒えてくるんです。今のところは⾃分⾃⾝の基礎研究としてやっていますが、これから僕が関わるデザインの仕事に投影されていくはずです。そういうところに、未来がひらいていくと思っているんです。
ー それは未来への仕事の「種」を仕込んでいるということでしょうか。
原 ⾃分のなかで⼿応えのあった仕事は、印象に残りますよね。幾重にも経験を経てくると、その⼀つひとつが少しずつつながり始めてくる感じがします。意図して種を仕込むというよりも、経験が重なり、新しい連結点が⾃ずと次々にできてくる、そんな感じです。
⽇本はまだ「疲れていない」
ー 原さんは⽇本を巡りながら、⾵景を⼤切にしているのを感じます。その⾵景もオーバーツーリズムで壊される懸念があります。
原 どちらかというと⾵⼟を⾒ているのでしょうね。オーバーツーリズムになると問題ですが、それは⼀部の話で、観光経済でみると⽇本はまだまだ来訪者を受け⼊れられます。⼀⼈当たりの消費単価もけっして⼤きくなく、これまでは訪れる⼈の量で成⻑してきました。観光地では質を⾼めようと、宿泊施設の⾼度化に⼒を注いでいますが、より遠いところから来て、⻑く滞在してもらう⽅向では確かに収益を伸ばせるはずです。
しかし⼀⽅で、単価が⼩さい⽅、つまり庶⺠の旅の楽しみも⼤事にしてほしいと考えています。パーソナルジェットで1週間の旅に何千万もかけるような⼈々からは、しっかり対価をいただけばいいのですが、現状では、彼らが泊まるような場所がないので、⽇本にはまだ来ていません。
アマンの創⽴者、エイドリアン・ゼッカはインドネシア⼈ですが、⽩⼈富裕層のニーズを⼼得ていたから、最⾼級リゾートブランドをつくりあげることができた。しかしそれは、植⺠地であった歴史に⼤きく影響されていると思います。⽇本は植⺠地であったことはないので、欧⽶の来訪者に対しても⾃分たちの⽂化で堂々ともてなすべきで、⽇本はそれができる稀有な場所でもあるのです。⽇本列島は、あらゆる湾や⼊江、海岸がすべてすばらしい。国⼟の67%が⼭林で、これは世界第3位です。そこに固有の⽂化があり、⾷も⼯芸も豊かです。気候・⾵⼟・⽂化・⾷、どれをとっても超⼀流です。そこに⼀番気付いていないのが、⽇本⼈だと思います。当たり前にある⽂化・⾵⼟の価値に気づいていないし、⽇本⽂化を忘れようとしている感じもあり、それが怖いですね。⽇本の潜在⼒に気付いているのは外国⼈や海外資本で、⽇本⽂化を理解して動き始めています。
ー 観光地のプロジェクトが進⾏中なのでしょうか。
原 ハイアットホテルズと地域活性化を軸に事業展開しているKirakuが出資し、ラグジュアリー温泉旅館「吾汝|ATONA」を 10年間で 20カ所くらいつくるプロジェクトが進⾏しています。2027年に由布院が、続いて屋久島・箱根・久住が次々と開業予定で、僕はそのブランドディレクターをやっています。
それ以外では、北海道・標茶町の釧路湿原、シラルトル湖のほとりの建築のリノベーションを担当しました。周囲は⼿付かずの湿原が広がっています。内装やVIはもちろん、周囲の⾃然へのオリエンテーションのデザインを僕らが担当して、おもしろい施設になったと思っています。ただ、当初は運営側との意識が噛み合わず、売店には⽇本の観光地にありがちな⼟産物が並んでいました。それを丁寧に説明して控えてもらった。あれほどすばらしい⾃然の中に場と時間を得た時、⼈は何を欲しいと思うか。例えば、⾼精度の双眼鏡はどうでしょうか。あなたが⼈⽣で精度の⾼い双眼鏡を使う機会があるとすると、それは今でしょ、というような場所ですから。
東京の、井の頭公園や神⽥川沿いの緑地を朝早く歩いていると、⽴派なカメラを持った年配の⽅々がたむろしているわけです。⼩さな池の杭の上にとまるカワセミを⼤勢で、カメラを連ね、息を潜めて待っていたりする。そういう⼈たちに、この場所を知らせたいと思うのです。観光にはいろいろな層があっていい。普通の⼈たちが、⽇本の津々浦々を楽しめる施設をつくるべきだと思っています。
ー 原さんのデザインには、「⽇本の美」が核としてあります。
原 ジャパン・ラバーではないし、愛国主義者でもないけども、海外との仕事を重ねると⽇本はまだ「疲れていない」と思うんです。⽇本は明治以降、⻄洋化に舵を切り、戦後は製造業に⼒を注いで成功しましたが、それも一段落しました。今は、⽂化に向き合う時です。⽂化は、その国の資源なんです。千数百年ひとつの⽂化であり続けた国は類を⾒ないので、歴史も含めて、こんなに資源の豊かな国はない。この国の⾵⼟もそうです。でもその豊かさをステレオタイプに集約するデザインは相変わらず多く、⽬にすると耐えられない気持ちになります。⽇本の美の重要なところは、何もない空間を緻密・丁寧につくることなんです。何もないところに、ぽつりとひとつものがあることで、そこに意識を集中させる、そういうことで感じあう美なのです。
ニーズは幻想である—無印良品の思想
ー さて、無印良品のアートディレクションを⽥中⼀光さんから引き継がれた経緯を教えてください。
原 ⽥中さんから突然、声がかかりました。⽥中さんは「無印良品の仕事が始まった当初は、夜も眠れないぐらいおもしろかった」と話されていました。そうだろうと思いました。でも、すでにここまで成功しているブランドに、僕がこの先関与してさらに成功させるのは難しいと感じ、⼀晩考えました。そのとき、世界に無印良品を広げていく可能性はまだ⼗分にあると思い、そういうところで仕事ができるなら、と参画することにしました。
引き受けた当時は 5000アイテムだったのが、今は7500アイテムに増えています。深澤直⼈さんにもアドバイザーに参画してもらい、プロダクツを⾒てもらいました。ホテルの構想を⽴ち上げ、暮らしの⽂脈を通して無印良品の思想を体感してもらう⽅法にも挑戦してきました。移動式の店舗「MUJI to GO」のような、機動⼒のあるサービスを考えたり、無印商品という考え⽅を「家」にすることを試みたり、多⾔語、多通貨に対応するタグ・ラベルのシステムをつくりあげたり…。最近は「無印とは何かを書いてほしい」と⾔われて、2003年から取り組んできた広告やプロモーションについて⽂章をまとめています。まさに書籍としてのアーカイブですね。そろそろ、次のアートディレクターにバトンを渡していく時期なので、⾃分がやってきたことを整理し始めています。
ー 当初は⼤量⽣産・⼤量消費に疑問を呈したオルタナティブな存在だった無印良品が、原さんがディレクションしたことで、スタンダードな存在になりました。
原 スタンダードになったとは思っていません。「質素でありながら豪華に引け⽬を感じず、質素であることをむしろ誇らしく思うような暮らしのあり⽅」が基本にあることは変わりません。無印良品が誕⽣したのは1980年で、80年代の⽇本はバブルの絶頂期でした。飽和状態へのアンチテーゼでもあった。その後バブルは崩壊し、⽇本では⼈⼝減少や過疎が懸念されていますが、世界の⼈⼝は 80億を超え、僕が⽣まれた時の2倍、⼤戦後からは4倍にもなっています。地球が⽣産できる穀物量はすでに限界に達していると⾔われ、海洋汚染や地球温暖化も深刻です。しかしながら、AI は相変わらず経済を加速させようとしていて、「過剰さ」は戻すことはできない。そういうこの過剰さに対して、「違うんじゃないか」「ちょっとまずいな」と感じている⼈たちの共感が無印の市場なのです。
スタンダードになって、どなたにも提供しますと、⽇⽤品をリーズナブルな価格で売るだけの店になったら、何の価値もない。思想と、本来座るべきニッチの部分を⾒定めて守っていかないといけない。僕はあくまでアドバイザリーボードのメンバーでありクリエイターであるので、経営権限はないけれど、無印の場合は経営陣とクリエイターが対等にものを⾔い合う関係が築けている。率直なアドバイスを重く聞いてくれる企業です。
ー どんな⾵にアドバイスされるのですか?
原 ⽉に⼀度、2時間ぐらい、4⼈のアドバイザリーボードメンバーが、経営層と話し合います。アドバイザーはクリエイターであることが本業で、皆、率直な意⾒を披露します。無印良品は商品の数が膨⼤です。⼀つひとつに強い個性や特徴的なデザインを与えるのではなく、全体として醸しだす空気のようなものをつくることを⼤切にしています。広告も、商品の魅⼒を誇⽰し説明するのではなく、「こういう暮らし⽅もある」という提案をさりげなく⽰していくのです。
⾷欲をそそるような表現はせず、「これでいい」という抑制感に知的な満⾜感が⽣まれるよう配慮しています。派⼿さよりも透明感。⾒る⼈、使う⼈が勝⼿に余⽩を埋めてくれるようなデザインを⽬指しています。
ー ⽥中⼀光さんはなぜ、原さんを後任に指名したのだと思われますか?
原 そのことは⽣前伺うことはできなかったので、わかりません。僕は⽥中さんの弟⼦筋ではないし、それほど多く話したこともない。2002年の夏に声をかけられ、そのときは僕の仕事が⽴て込んでいてすぐには動けなかったので、翌年の1⽉に深澤直⼈さんを紹介するために⽥中さんに会いにいったのが始まりでした。でも、その翌⽇に急逝されてしまった。2000年の「RE-DESIGN ⽇常の21世紀」で、「ゆうぱっく」のリ・デザインをお願いしたことがあるので、あの企画や、同じく2000年で銀座松屋の⽩を基調とするアイデンティフィケーションの仕事などを評価いただいたのではないかと思っています。
ー 無印良品はユーザーを育てているように感じます。
原 ユーザーの⽣活リテラシーを上げていくことで、無印良品の市場が活性するということは意識しました。⾃分の⽣活空間を⾃分でつくれるような⼈たちは無印良品の理想の顧客であり、そういう⼈を育てていくことは⼤切なことです。だから家の話をしたり、つくり⽅を考えたり、リノベーションをしたりしたわけですが…、ちょっと⼿を着けるのが早かったですね。僕は当時それを「欲望のエデュケーション」と表現していました。欲望というものは、ルーズな⽅に流れがちだけど、これを洗練させ、その質が⾼まった国からは、どんどんいい製品が出てくるはずだと考えていました。デザインには、「⽬覚めさせる⼒」つまりエデュケーショナルな⼒がないとだめ。僕はニーズという⾔葉が⼤嫌いで、そんなものは幻想だと思うんです。ニーズがあるからこの扇⾵機ができるわけでなく、扇⾵機をつくるから涼みたいという欲望をそっちの⽅に引っ張っているだけ。よだれが出るようなカレーのパッケージをつくり、それがおいしそうだと、そっちに引っ張られていく。そういうベクトルが常にある。そうじゃない⽅向を⽬指すのが、無印良品の「これでいい」というコンセプトなんですね。⽣活リテラシーの⾼い⼈がいる、そういう国になりたいなと思います。
デザイ「ナー」ではなくデザインの道
ー 最後に、なぜデザイナーになろうと思ったのか伺います。⽯岡瑛⼦さんのアトリエで勤務したことがあるそうですね?
原 ⼩学校から⾼校まで、画家夫婦のお世話になっていました。ウィーン幻想派のような絵画を描く⼩野絵⿇・⼆三夫妻で、その影響で、ペインティングというか⼤きなキャンバスにたくさん絵を描いて過ごしていました。進路を考える際に、⾃分は学⼒でトップが取れない、なら芸術⽅⾯に進もうと、芸⼤と武蔵美を受験しました。結果として武蔵美の基礎デザイン学科に⼊学したのです。基礎デザイン学科の起草に参加した向井周太郎先⽣にここで出会いました。向井先⽣はデザインを表現としてではなく、⽣や宇宙を解釈する哲学、つまり「デザイン学」と捉えていました。デザインはひとつしかない、領域を分けたりするものではない、外界環境を成していく⼈間が備えるべき知性だと気付かされて卒業したんです。⼤学院に進みますが、デザイ「ナー」になる勉強もしたいと、⼤学で教わった⾼⽥修地先⽣のところでまず1年働きましたが、毎晩、デザイン談義の楽しい⽇々でした。その後、思い⽴って⾼⽥先⽣に紹介いただき、⽯岡瑛⼦さんのアトリエで1年働いたのです。
ー しごかれたのですか?
原 相⼿にされなかったというか。⽯岡さんはベジタリアンで、スタッフが持ち回りでランチをつくるんですけど、僕が担当すると、「あなたがつくるサラダは⽉並みなのよ」なんて⽬を⾒据えて⾔われる。ピーマンを輪切りにするとか、⾃分なりに⼯夫したつもりだけど、確かに⽉並みなんですよね。「あなたが今持っている、おそばのお椀は漆よ。でもあなたには無意味ね」とか⾔われて。漆の価値もわかっていないからその通りなんですけれど、20歳過ぎぐらいの未熟な男⼦が、⽇本⼑で試し斬りされるヘチマのように、なすすべもなくスパスパと輪切りにされて、間抜けな断⾯を⾒せて転がるような⽇々でした(笑)。
あるときは、『ローリング・ストーン』誌からジャパン特集の企画を依頼され、「原さん、なんかネタ持っている⼈を知らない?」とか聞かれて。⾃分なりに⼀⽣懸命案を出すのですが、まったく採⽤されない。⽯岡さんは、スズキのナナハン(750cc)に⽩無垢の花嫁がまたがって、時速120キロで⾶ばしているのを真正⾯からスケッチで描くわけですよ。そういうラフが本当にうまい。僕はやっぱり、かなわない。僕が提案していたものは時代のついた「根来の盆」とかで、⽯岡さんには響かなかったですね。
だけど、その衝撃があったおかげで、「ナー」になる決⼼がついたんですよ。それで、⽯岡さんのところを辞めさせてもらって、⼤学院の論⽂をギリギリで書き終えた頃、たまたま⽇本デザインセンターが中途採⽤していたので応募しました。短期の契約を重ねて正社員になったのですが、苦痛じゃなかったし、クライアントワーク以外の⾃由な時間で⾃分のデザインができる。根を⽣やしていける柔らかい⼟がここにはあると思いました。
今はデザイナーも意識していますが、背景にある思想の部分が経験値と融合して動き出している感じです。デザイナーのあり⽅を変えたい。
ー ⽇本も今、デザイン学やデザインそのものを考える時期にきていると思います。
原 いや、まさにそう思います。経済活動ばかりを軸にしてきたので、デザインの扱われ⽅がひどい。デザインを、美術というより、⼀般教養として勉強するようになってほしいと思います。なんでもアートだと持ち上げすぎると、いかがわしく感じられるようになる。デザインがそうなってしまわないように、僕らもしっかりしないといけない。
ー 未来へのデザイン提⾔も含め、貴重なお話をありがとうございました。
原研哉さんのアーカイブの所在
問い合わせ先
株式会社⽇本デザインセンター
https://www.ndc.co.jp